【ぼくらのアメ村エトセトラ vol.8】 努力を諦めない限り、成長は続く。CHOPPERさんが挑んできた、世界とアメ村でのスケートボードライフ。
25歳でプロになって、30歳の頃からもっと世界に目を向けて活動。40歳でリリースした作品のパートがフィーチャーされ、一気に世界中の人と繋がったんです。
これまでにもいろんな人との出会いや出来事があったと思うんですが、CHOPPERさんのスケーターとしての転機はどんな感じで訪れたんでしょうか?
スケーターとしての転機はいくつかあるんですが、今のスタイルを築いていく最初のきっかけは18歳の時ですね。プロを目指して練習してたんですが、若い子ならではのトレンドの技術だけを追いかけてるスケーターでした。久宝寺緑地だけではなく、アメ村の三角公園とかでも滑るようになってたんですが、スケーターの先輩たちから「お前は確かに上手いけど、オリジナリティを出せへんかったら終わりやぞ!」って言われたんです。その先輩たちはスケートボードのカルチャーにも精通してて、技術だけじゃなくて個性や自分のスタイルを持ってる人たち。小手先の技術にとらわれてる俺を見かねて諭してくれたと思うんですが、こっちからしたら「いやいや、上手いのが一番やろ!老害が何を言うてんねん!」って感じで(笑)
そのアドバイスを煙たく感じてたんですね。
俺らは屋外で滑ることがストリートのスケートボードと思ってたし、三角公園の中でやってることもストリートという認識でした。でも、先輩たちはトレンドのトリックはできないけど、ちゃんと地に足がついてバランス力のある人たちでね。ある日「CHOPPER、お前ストリートに行ったことあるか?」って聞かれたんです。また何を言うねんと思って、「いつも三角公園で滑ってますけど」と反論したら、「それは違う。お前は分かってないから連れて行ったるわ」と言われて…。
先輩たちとCHOPPERさんでは、ストリートの認識が全く別物だったと。
これは忘れもしませんね。土曜日の19時半頃に三角公園からプッシュして、心斎橋筋商店街に行ったんです。今ほど観光客がいるような時代ではなかったですが、それでも人の往来がそれなりにある中で、先輩たちはすごいスピードで滑っていく。俺も必死で追いかけてるけど、スピードも遅くて全然伸び伸びと滑れず、全く追いつくことすらできない。小手先の技術はあるのに、スケートボード自体の基礎技術がないから人にもぶつかりそうで、途中から板を手に持って走って追いかけたんです…(笑)。「こんなにカッコ悪い俺って、何やねん!ありえへん!」って思いました。
基礎技術にはそんなに差があったんですね…。
その時に先輩たちの言ってた意味が分かりました。スタイルとかオリジナリティとか、ほんまの基礎技術ってこういうことなのかって。完全に思い知らされたので、そこからはトレンドだけじゃなく、もっと多角的にスケートボードを分析していくようになったんです。ただ、トレンドのトリックなどはできてたから、それもミックスしたハイブリッドなスタイルが自分。どっちかに振り切るわけでもなく、両方を持つことでオリジナリティを追求していけるようになりましたね。
ある意味で、スケーターCHOPPERとしての本当のスタートが、この時だったのかもしれませんね。
そうですね。スケートボードのスタイルとしても、基礎がしっかりできた上で独創的なこと、奇をてらったことをミックスしてるので、基礎のできてない人が変なことするのは同意できないと今でも思ってます。あと、スタイルの部分で言えば、ファッションも。ティッシュ配りのバイトの話をしましたが、その時に知り合ったパンクシーンの人たちにすごく共感を覚えたんです。スケートボードにもトレンドのファッションはあったけど、右向け右の同じようなスタイルが本当にイヤでね。反骨精神も強かったから髪は派手なカラーリングをして、鋲のベルトは巻いてるけど、パンツだけはダボっとしてるような感じ。このスタイルは今も変わってなくて、ファッションもハイブリッドなんですよ。
いいものは、いい。好きだから、好き。いちいち理由をつけたり、ジャンルやシーンで線引きをする必要はないってことですよね。
でも、パンクシーンの人からはパンクじゃないと言われたり、スケーターからはおかしい者扱いされたりしてましたね。どのシーンにも属してないようなスタイルだったので。まぁそんなこと関係なく、オープンマインドな人からは仲良くされてたし、全ての人に理解されたいとも思ってませんでしたから。
その当時のCHOPPERさんのスタイル、雑誌とかでもよく見てたので覚えてます。
ファッションもスケートボードもハイブリッドで、初めて見た人は「何こいつ?」って思ったかもしれないけど、見せかけじゃなくてちゃんとした技術もありましたからね。はりぼてのハイブリッドじゃない、そんな強い芯があったたからこそ、結果的にいろんな雑誌でもフィーチャーされたり、『Ollie Magazine』でも連載を持つことができたのかなと。
雑誌はもちろんですが、ストリートでもCHOPPERさんの認知度は高まっていたと思いますが、プロとして活動し始めたのはいつ頃だったんですか?
25歳頃からですね。ロンドンのブランド<HEROIN SKATEBOARDS>に所属して、日本人では初の国際プロスケーターとして活動してきました。名前はちょっと過激なんですが、そっちの意味は全然なくて、創設者のマーク・フォスターが「自分にとってはスケートボードがヘロインだ」っていう想いが込められてるんですよ。現在は世界的にも有名なアメリカのブランド<BAKER>の傘下に入ってるんですが、ロンドンから全米デビューする時に作ったビデオ作品が、スケーターとしての大きな転機になりました。
その転機、めちゃ気になります!
作品をリリースしたのは2013年で、ちょうど40歳の時でした。個人的にも30歳の頃から完全に世界を向いて活動してて、<HEROIN SKATEBOARDS>のチームのみんなで3〜4年かけて仕上げた作品だったんです。リリースしてからの反響は良かったんですが、その時にロサンゼルス発のスケートボードメディア『THE BERRICS』が自分のパートをフィーチャーしてくれて…。
すごっ! 『THE BERRICS』は、『THRASHER』に並ぶアメリカを代表するメディアですよね。
日本人のスケーターとしては初のフィーチャーでした。体も小さくて身体能力では勝てないことが若い時から分かってたので、クリエイティブとアイデアで勝負するのが自分のスケートボードのスタイル。常に脳みそをフル回転しながらスケートしてたおかげで、誰もやってないトリックが発明できてビデオのパートに出すことができたんです。それがフィーチャーされて世界的にも広がり、『THE BERRICS』の編集長からは、「また作品を送ってくれ」と言われるようにもなってね。数ヶ月後に三角公園だけで撮ったビデオパートを送ったら、それもまたフィーチャーされてバズって(笑)。そこから一気に世界のいろんな人と繋がるようになったんです。
1度ならず2度もフィーチャーされるって、すごいとしか言えません。
世界中に知人や友人もできたし、シグネチャーモデルのデッキが世界流通したのも、当時の日本人では初でしたね。その後は東京オリンピック関連で、IOCのオフィシャルプロモーションからも声がかかるようになったり。
まさに大阪から世界へ!を体現してます。
あんまり裏話は言えないんですけど、担当した映像制作チームの日本支社はもっと正統派のスケーターをリストアップしてたそうなんです。でも、アメリカ本社の人が俺らのことを知ってくれてて、「CHOPPERとHAROSHIで!」という一言で出演が決まりました。もちろんオフィシャルプロモーションではスポーツマン的なコンテンツもありますが、もっとカルチャーシーンに寄った演出がしたくて起用されたんだと思います。その波及効果でBBCやCNNでもインタビューされましたね。まぁ、日本の人はあんまり気づいてないので、それもおもしろいなと。実は!的な感じで(笑)
その影響もあって、CHOPPERさん自身も世界との繋がりを実感することはありましたか?
<HEROIN SKATEBOARDS>の拠点がロンドンだった時は現地で声をかけられることもあったけど、いろんなメディアに登場させてもらったことで、今でもアメ村のショップに海外のスケーターたちが来るし、たまたま俺と会えた時は「ラッキー!」と言ってくれてます。日本のスケートボードシーンってこれまでは東京一辺倒やったけど、昔から日本もアメリカのようにニューヨークとロサンゼルスみたいに東と西でシーンができたらいいなと言ってたんですよ。最近ではアメ村を目掛けて滑りに来て、東京に寄らずに帰国する海外のスケーターの子も徐々に増えてきてます。まぁ、やってることはワールドワイドでも、ニッチではあるから、そんな状況を気づいてない人は多いかもしれないけどね。
でも、大阪のスケートボードシーンは、CHOPPERさんたちが築いてきたと言っても過言ではないかなと。
俺はアクティビストだし、世の中は変えてなんぼやと思ってるんです。日本のキッズたちもメインストリームのトップ選手しか見てなかったりするので、その周囲で活躍してるニッチな存在にはピンときてないのかもしれない。俺自身が今からメインストリームのトップにはなれないけど、海外のコアな実力派スケーターとはたくさん繋がってるから、その関係性は大阪のシーンにも還元していきたいと思ってます。自分の目が黒いうちにどこまで体感できるかは分からないけど、やってることが徐々にでも広がっていけば、日本はもちろん、大阪のスケートボードシーンの未来は変わっていくんじゃないかなと。
CHOPPER
本名、中村泰一郎。大阪発のスケートクルー・OSAKA DAGGERSを牽引し、オリジナリティあふれるトリックとセレクションは世界的にも知られている。スケートボードブランドの<HEROIN SKATEBOARDS>にも所属し、25歳だった当時は日本人初の国際プロライダーとしても活躍。2013年にリリースされた作品『VIDEO NASTY』でのパートは、『THE BERRICS』でもフィーチャーされるほど。現在は今春のリリースを目指して、新たな作品制作に挑んでいる。