世界で賞賛されるデザインと音色。大阪発のシンバルメーカー<emjmod>の延命寺さんがずっと大事にしてきた、自分の中にあるものの純度を高め続けること。

世の中にはたくさんの楽器があり、知らないものもまだまだありますが、シンバルのことはきっと誰もが知ってると思います。幼い頃の学校の発表会などではシンバル担当は人気だったし、フェスなどでドラマーがシンバルを叩く姿にグッときた…、なんて人も多いんじゃないでしょうか。そんな馴染みのあるシンバルだけど、具体的なメーカーまで知ってる人はドラマーや音楽関係の方ばかりかもしれません。でもね、大阪にも数多くのアーティストに愛用され、世界的な人気を誇るシンバルメーカーがあるんです。それが、<emjmod(イーエムジェーモッド)>。主宰しているのは、自身もドラマーとして多方面で活躍する延命寺さん。メーカーの立ち上げは2020年とまだ浅いですが、その独創的なデザインと音色のシンバルは日本のドラム業界に衝撃を与え、海を越えて話題になったほど。そんな<emjmod>の延命寺さんに、ドラムに興味を持ったきっかけから現在に至るまでのお話と、これからのことをたっぷり聞いてきました。とにかく動きまくって偶然を楽しみ、共鳴を呼びながら必然へと変えていく延命寺さんのスタイル、超ロックです。そして何より、このかっこよすぎるシンバルに、惚れてくださいっ!!

バンドでは上を目指せず、27歳で挫折。だから、ドラマーとしての自分の名前を売ることに思考を転換させて、個人活動を始めたんです。

シンバルメーカー<emjmod>を立ち上げた経緯やドラマーとしての活動など、いろいろお伺いしたいんですが、まず延命寺さんがドラムに興味を持ったのはいつ頃だったんですか?

かなり昔まで遡るんですが、幼稚園の発表会で小太鼓を担当したのがきっかけですね。小太鼓を叩いてみるとすごくおもしろかったし、幼稚園の倉庫にドラムセットが置いてあったので、親に「ドラムを習いたい!」と直談判しました。でも、「あんたみたいなチビにはまだ早いわ」と突っぱねられまして…(笑)。小学校に入学してからは剣道やスイミングを習ってました。

あらら…全く違う方向ですね。

中学校ではそのまま剣道部に入ったんですが、ガチのスパルタ系だったのでフェードアウトして陸上部に入ってましたね。ただ、中学校を卒業する間際に、たまたま島村楽器でドラム教室が開催されてるのを見つけたんです。小学校の時も音楽教室のドラムを勝手に叩いたりしてたし、ずっとドラムがしたい想いはあったので。その場で申し込みをして、親には「俺はドラムやるんじゃー!!!!」って報告しました。

幼稚園児の時からの想いが消えてなかったことに、両親もびっくりしたんじゃないですか?

「そんなにやりたかったんや…、ごめんな…」って言うてましたね。

想いを溜め込んでた期間が長いだけに、ドラム熱が一気に爆発したんじゃないですか?

ドラム教室に通い始めてすぐの頃に、メンバー募集の張り紙を通じて社会人の人とバンドを組みましたし、とにかくドラムを叩くのが楽しかったのを覚えてます。一応、高校では身長が高かったので同級生に誘われてバスケ部に入ったんですが、合宿の日に預かってるボールを忘れてめちゃ怒られたり、そもそも体育会系や団体競技に向いてないのを再認識したから、1年で退部(笑)。そこからですかね、ドラムまみれの毎日になったのは。

なるほどー(笑)、MYドラムセットを買ったりもしたんですか?

高校2年か3年の頃にお年玉で29,800円のドラムセットを買いました。実家は岸和田で、だんじりも盛んな場所だったし、わりと音を出しても大丈夫な環境だったので、毎日叩きまくってましたね。でも、親父は「うるさいわ〜」って発狂してましたけど。

それだけドラムに夢中になってたと。バンド活動の方はどんな感じで?

社会人の人たちとは、RAMONESやRANCID、NOFXとかのコピーバンドをしてました。ドラムを始めて3ヶ月でコンテストにも出たんですけど、もうズタボロでめちゃくちゃヘコんでしまって。音源は打ち込みで制作してたから、審査員から「音源と全然違いますね」と言われたり(笑)。まぁ、それもいい思い出ですね。高校のメンバーともバンドを組んでて、当時ブームだったメロコアや青春パンクをやったり、その後はレッチリやFoo Fightersのコピーをやってました。ただ、歌に対する意識はけっこう高かったので、青春パンク系の“音程を外しても勢いとノリがあればいいでしょ”的な歌い方は許せなくて(笑)

青春パンク系って、その要素も込みな気もしますが、許せなかった理由は何かあるんですか?(笑)

母がユーミンや山下達郎が好きで、家ではよく流れてたんですよ。やっぱり歌が上手い人の曲を聴くと気持ちいいし、僕自身も歌が好きなので、「そこは音程を外すなよ!」って感じで。実は、バンドを組む前は、ボーカルしたい欲もあったんです。もちろん、ドラムがめちゃくちゃ好きなんですけどね。

そんな秘めた想いもあったとは!ちなみに当時は、音楽活動をそのまま続けていきたいと思ってたんですか?それとも現職に繋がるような想いがあったり、それ以外の夢があったりとか。

当時の想いの記憶が定かじゃないので今言えるとしたら、僕の中でドラムと音楽活動はそもそも切り分けてスタートしてるんです。僕の場合は幼稚園児の時の「ドラムがしたい!」という想いが始まりだけど、普通は「バンドがしたい!」から始まって、ドラムを担当したりしますよね。だから、全く軸が違うというか。あくまでもドラムという楽器が僕のルーツなので、音楽活動はドラムの延長線上にある表現の一つかなと。もちろん当時も今も、音楽活動は音楽活動として、本気でやってますよ。ドラムのシンバルに関しては、高校生の頃から自分で修理したり加工したりしてたかなぁ。ドラム教室の先生がジャズドラマーの方で、壊れた時の修理方法とかも教えてくれてたので、自分なりに試行錯誤してやってたんです。ヤフオクとかで中古のシンバルを買い漁ってましたし、同じ型のものを4つ買って音の響きを研究して比べたりもしてました。シンバルって量産品でも全く同じ音色のものはないから、自分にしっくりくるものを見つけるために、とにかく買って買って買いまくって、加工したり、使わないものは売ったり、壊れたら修理する日々を当時から送ってたんですよ。

高校生の時に買ったシンバルがこちら。割れた部分は、こんな感じで加工してたそうです。

確かに「ドラムがしたい!」という想いを軸にして、ドラムとの関わり方を延命寺さん自身が楽しんでる感じですね。それにしても高校生の頃から修理や加工してるって、只者じゃない!

お金がない中でせっかく買ったものが割れたり、ヒビが入って使えなくなると腹立つじゃないですか!(笑)。それに割れた部分を切り抜き、干渉する部分を減らすとこんな音が鳴るのかとか、勉強にもなりますし。

好きだからこそ、ドラムへの熱量があるからこそですね。ドラム歴とシンバル改造歴がほぼ同じというのも、驚きました!ドラムを始めてから社会人の方や高校の友だちとバンドを組んでたとのことですが、その後はどんな感じだったんですか?

大学では軽音楽部に入り、そこのメンバーたちともバンドを組みました。僕自身まだまだ下手くそでしたが、高校時代から毎日ドラムを叩いてたので「上手いヤツが入ってきた!」みたいな噂が広まり、それを聞きつけたケビンというボーカルのヤツにずっと誘われたんです。でも、ケビンは僕の嫌いな青春パンク好きだったので、「絶対無理!」って最初は断ってました(笑)。あまりにもしつこいから1回だけという約束でセッションしたんですが、やってる曲は意外とかっこよくてね。僕は楽曲の編集やアレンジもしてたので、そんな話をするうちに意気投合してしまって。他のバンドからは抜けて、ケビンとのバンドに本腰を入れるようになったんです。

音楽性が一致したと。

まぁ、メンバーみんなが絵に描いたようなクズバンドマンでしたけどね(笑)。NHKの番組に出してもらえたり、堺市とFM802が開催してたミュージックチャレンジというイベントでは、DJのマーキーさんに「いいバンドがいる!」と言われたり、少しずつ目に留まるようにはなっていきました。

大学生時代もドラムと音楽活動に思いきり打ち込めてたんですね!でも、このまま続けるか否かという、選択を迫られるタイミングでもあると思うんですが、延命寺さんたちはどういう選択を?

僕は就活もして内定もいくつかもらってたんですよ。内心は「どうしようかな」「バンド続けたいな」と迷ってたのも事実ですが、そんな時にメンバーのヤツが「俺はこのバンドで成功するねん!」とか言い出して…。じゃぁ、「俺も内定蹴るわ!」って感じで、卒業してフリーター生活を歩み始めました(笑)

映画とかでもよくあるシーン的な。両親は何も言わなかったんですか?

「ほんまに大丈夫なんか?」とブツブツ言いつつも、見守ってくれてましたね。まぁ、結局バンドとしてはなかなか軌道に乗らず、ケビンの家庭の事情があったり、僕からバンドに貸してるお金が100万円くらいあったりで、さすがにもう無理だと思って解散することになったんです。別のバンドからのオファーもあったんですが、1年は休憩するつもりで断ってたのに加入することになってしまって…。案の定、音楽の方向性や方針が合わずですごいもめたし、加入時に1年限定と伝えてたので、契約満了的に脱退。だから、22歳で決断した船出は、26歳で沈没し、27歳でも挫折して再び沈没するという感じでした(笑)

包み隠さず話していただきありがとうございます。実力があっても、タイミングや運、縁とかもありますしね。そのタイミングで、シンバルメーカーを立ち上げることになるんですか?

いや、シンバルメーカーの立ち上げはまだ先なんですよ。僕自身、バンドメンバーにはすごくリスペクトがあって、いい音楽をしてるという想いもありました。でも、バンドでは上を目指せなかったので、ドラマーとしての自分の名前を売ってたくさんの人に知ってもらってから、またバンドを組めばいいかなという思考に転換させて動き出すことにしたんです。

なるほど。それもドラムを軸にして、また違う表現をするってことですよね。実際にはどんな動きを?

まずは、今までしてこなかったリズム&ドラム・マガジンのコンテストに応募しました。自分のレコーディング風景を撮影し、音源を元に編集して映像化したものを送ったりして。今から10年以上前ですが、これからはYouTubeの時代になると思ってたので自分で編集スキルを磨きつつ、ドラムの演奏動画を撮ったり、尊敬するドラマーのイベントに行ったり、とにかく会いたい人にはツテを使って会いに行ってましたね。常に自分の資料や音源を持ち歩いて有名なドラマーや関係者に渡したり…、ただ今思えばドラマーがドラマーに音源を渡してもあんまり意味ないんですけどね(笑)。あの頃は、とにかく模索しながら動きまくってたんですよ。

ドラム界の錚々たる職人たちを前にして、僕が昔からしてた加工とはゆえ、「シンバルに穴を空けまーす!」なんて絶対に言われへん(笑)。なんとか同じ土俵で話すために作ったのが、<emjmod>設立のきっかけにもなったマルチトーンシンバルでした。
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Profile

延命寺 a.k.a emj

1985年岸和田市生まれ。大阪を拠点に活動するアーティスト・ドラマーであり、2020年よりシンバルメーカー<emjmod>を主宰。その独創的なデザインと音色を持ったシンバルは、国内外の多くのアーティストに愛用されている。自身が所有してきたシンバルはゆうに1000枚を越え、日々新たなデザインと音色を追求中。シンバル製作の一方、ベースとドラムだけで構成された2ピースのインストバンド「TIGER&DRAGON」や「Auver Ride」「THE BODY」などでの活動をはじめ、アーティストのサポートやドラム講師も行う。趣味はガンプラ作り。

https://www.emjmod.com/

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