音楽、バンド、執筆、余生…。大阪が生んだ稀代のPOPMAKER、Sundayカミデさんの果てしない才能と、ウィットな人生に迫る。
ワンダフルボーイズのボーカルや天才バンドのキーボード&ベース、様々なアーティストへの楽曲提供にプロデュース、そして自身がオーガナイズするイベント『Love sofa』など、日本の音楽シーンに果てしない才能の爪痕を残し続けてるSundayカミデさん。執筆活動に精を出したり、最近ではドラマにも出演したりして活動の幅をどんどん広げてますが、アンダーグラウンド感もしっかりと刻み込まれたそのスタイルが、“らしい”感じなのです。8月6日(土)には大阪城音楽堂で『Love sofa 2022 summer special』が開催されるので、そのことも詳しく伺いながら、これまで歩んできた人生から音楽のこと、この先のことまでをインタビューしてきました!才能とかセンスとかの前に、とにかく人間味があふれ過ぎてるというか、ハートフル。これを読んで、ぜひ『Love sofa 2022 summer special』に出かけてくださいね!!
めちゃくちゃ面白くないことをテレビで普通に言ってる自分にビックリ。大学生になって初めて、自分が面白くない人間だと気づきました。
8月6日(土)に開催される『Love sofa 2022 summer special』のことをじっくり伺う前に、まずはSundayカミデさんの音楽のルーツを聞かせていただければと!いつ頃から音楽に興味を持ち、演奏などを始めていたんですか?
3歳の頃からピアノを習い始めました。男3人兄弟で上の2人が習ってたので、自分も当たり前のようにしてたし、ピアノをする環境だったんです。
今もピアノをされてるので、まさにエリートですね。
でも、小学5年生の時にやめました。そこから中学3年生までピアノから離れてたんですが、諸事情で再開することになって…。実は、どの授業も全般的に出てなくて内申点が足りず、コーラスコンクールでピアノを弾けば「音楽についてはそれなりに出席したことにしてあげる。どうや?」と言われたんです。音楽の授業は1回も出てないんですけどね。
ちょっと問題ありな生徒と、優しくてアツい生徒想いの先生という構図が見てとれます(笑)。それでピアノを再開したと。
自由曲がX JAPANの「Say Anytihing」で、めちゃくちゃ家にこもって練習しましたね。なんでこの曲やねんとは思いつつも、既に決まってたものだし、ちゃんと練習しないと絶対できないくらい難しかった。ただ、僕の伴奏でみんなが歌う「Say Anything」はすごく感動的だったのを覚えてます。
その光景が見てみたい。そもそも、そんな難しい曲を弾けたのもすごいですが、きっとYOSHIKIさんが憑依したんでしょうね。ちなみに昔はどんな曲を弾いてたんですか?
小学生の頃はデュラン・デュランやジョン・レノンのアルバム「イマジン」をよく聴いてて、アルバムタイトルでもある「イマジン」は耳コピで弾いてました。今でもたまに弾きますけど、楽譜は1回も見たことないんですよ。耳コピした音で弾いてるので、合ってるかどうかは分からないですが、なんとなくこんな感じかなと。
絶対音感ですか?
絶対音感はないんですけど、単純に聴こえてくる音を何回もピアノで練習してたので。
それ、普通にすごいと思います!ピアノを再開するきっかけがあったわけですが、その後はバンド活動とかもしてたんですか?
友だちの組んでるバンドにベースがおらず、文化祭に出るために誘われたんですよ。興味はなかったし、やったこともなかったけど、ベースがいないのは可哀想やと思ってね。「多分できるで!」と言ってバンドに加入し、その日に楽器屋でベースを予約しました。
行動が早いし、自信にも満ちてますね(笑)。演奏はどうだったんですか?
その文化祭は、当日に出るための予選会があるくらいちゃんとしてて、いろんなバンドが出てたんです。僕らもいいライブができたと思ってたんですけどね。その時のボーカルは、今もシンガーソングライターで活動してる市村マサミ君だったんですが、予選会の演奏中に全裸になりまして…。しっかり落選しました。全裸事件のおかげで。
超ロックなことしてますが、校内の行為としてはぶっ飛び過ぎてますね(笑)
だから、文化祭のために軽くやったり、ピアノやベースをマイペースに弾いてた程度です。ベースも当時は簡単に弾けると思ってたし、それなりにできてるつもりでしたが、今となってはすごく難しいものだなと。その奥深さにも気づいてるので、毎日練習はしてますね。
小学校から高校までいろいろありつつも、音楽には呼び寄せられてた気がします。本格的にバンドを組んだのはいつ頃に?
高校1年を2回して、3年生になった頃に後輩と組んだのがバンドとしての本格的なスタートですね。そのバンドは大阪のインディーズ事務所に声をかけられて、「これから育てていく!」的な立ち位置で活動をしてました。僕自身はライブしてる時に東京のレーベルの人から「ベーシスト兼プロデューサーとして上京しないか?」と誘われてた時期もあったんですよ。結局は断りましたけど、その頃からミュージシャンやアーティストになることを少し意識してたかなと思います。
けっこう順風満帆なスタートですよね。
でも、事務所の上下関係的な謎のルールがあったり、ライブハウスのノルマ問題とかもありましてね。別にノルマをこなすのが悪いわけじゃないですけど、ブッキングでバンドが集まったから開催するだけで、ライブハウスの人もその日のバンドに思い入れがない場合もある。それはちょっと違うかなと思い始めてる頃に、後輩が高校を卒業するタイミングを迎えたんです。僕は先に卒業して大学に行ってるし、後輩もそれぞれの夢や進路があったので解散しました。僕はその時に音楽もやめたんです。ある程度頑張ったなと思って。
いろんな部分が見えたりもしたし、やり切った感もあったと。
大学では教員になるための勉強もしてたので、もういいかなと。それで音楽を完全にやめて、1年くらいはビーチバレーしてました。
すみません、ちょっと話が急展開すぎませんか(笑)
ラグビーを小学生から続けてたのでクラブチームにも入りつつ、それと並行してビーチバレーにも励んでたんです。当時、須磨海岸でFM802主催のビーチバレーのオープン大会があって、プロの中に混ざって一般参加で出たりもしてましたね。
けっこうガチじゃないですか!?
その大会では、たまたま1回戦の相手がお笑いタレントの和泉修さんと、元巨人の宮本和知さんのペアだったんです。僕らの相手が有名人だったので、テレビに映ったりインタビューもされましてね。真っ黒に日焼けして、髪も潮焼けで茶髪になり、ガイコツのネックレスをしたイキった若者やったんです。でも、そのインタビューがオンエアされ、自分を見てすごく反省しました。
何でですか?
めちゃくちゃ面白くないことをテレビで普通に言ってる自分にビックリしたんです。そこで初めて、自分が面白くない人間だと気づきました。今までも相当面白くないことを言ってたんだろうなと。面白くないことは言わないと心がけ、その後2年くらいは反省しながら生きてましたね。
当事者としては黒歴史的なものかもしれませんが、逸話としては最高過ぎます(笑)。そうやって日々反省する中で、音楽の世界にカムバックするきっかけは何かあったんですか?
後にA.S.P(Associate Social Piano)というバンドを一緒に組むRAITAやBAGDAD CAFE THE trench townの番長が、「もう1度音楽をやるべき!」と言ってくれたんですよ。
それはどんな時に?
RAITAが僕の実家に勝手に住んでたんですよ。僕がいない時でもお母さんに「行ってきます」とか、「今日も朝ごはんおいしかったです」とか言うくらい、家にいてました。
カミデ家の4男状態ですね。
そんな感じです。多分、説得するために僕の家に住んでたのかもしれませんね。番長とかいろんな人をとにかく連れて来てたんですよ、勝手に。まぁ、RAITAも番長も高校の後輩とそのまた後輩だったのでね。その2人に説得されて、もう1度音楽をしようと思ったんです。
Sundayカミデ
OSAKAUNDERGROUNDのPOPMAKERでありワンダフルボーイズのボーカル。 21世紀の名曲「君が誰かの彼女になりくさっても」の作詞・作曲としても知られ、様々なアーティストへの楽曲提供やサウンドプロデュースも手掛ける。 また、ラジオ、トークライブ番組でのMCや自らのエピソードをまとめたエッセイ集を出すなど活動の幅は多岐に渡る。自身がオーガナイズするイベント『Love sofa』はスタートから22年目を迎え、熱烈な音楽ファンから深く愛されている。