音楽、バンド、執筆、余生…。大阪が生んだ稀代のPOPMAKER、Sundayカミデさんの果てしない才能と、ウィットな人生に迫る。


『Love sofa』は人気のバンドを呼ぶんじゃなくて、自分たちの広がりでバンドを作りながらカタチにしていったイベント。

もう1度音楽をすることになり、そこから組んだのがブラジル・ジャズバンドのA.S.Pということですか?

A.S.Pを組んだタイミングとほぼ同時かその前に、僕がオーガナイズするイベント『Love sofa』をスタートさせたんです。ちょっとその前に遡った話をすると、ライブハウスでもいろんな経験をしたし、バンドを作るだけではどうにもならないと思ってたんです。活動していくのもけっこう厳しいだろうから、それならクラブとかで自分たちのパーティーを持ち、そこから新しい何かを作る方が早いんじゃないかなと。僕自身、中学3年生くらいから先輩に連れられて、今はなきアメ村のレゲエクラブ『セントアンズ』に通ってたので、自分たちで何かを発信するシーンを割と早い段階から見てたんです。

バンド活動を先決するよりも、まずはステージやシーンを自分たちで作っていこうとしたと。『セントアンズ』のことは、ワンダフルボーイズの「93年の唄」でも歌われてましたよね。

そうですね。自分たちで何かを発信していこうとみんなで話し、そこから生まれたのが『Love sofa』でした。最初のイベントは2000年4月、現在は閉館してしまった梅田の『ヒートビート』という500人くらい入る大バコで開催したんです。確か『Love sofa after time』そんなタイトルだったと思います。

いきなりそんな大バコをよく押さえられましたね。

尾崎師匠というギタリストの方がいて、以前から僕らのことをどこかで見かけて気に入ってくれてたんです。19歳くらいの頃には「お前はイベントとかをして、みんなを率いた方がいい」と言われてたので、尾崎師匠に電話して「イベントしたいんです」と伝えたところ、「ハコ代をリーズナブルにしたるから、ヒートビートでするか?」と言っていただけて。記念すべき1回目を開催することができました。

その日をスタートに『Love sofa』が22年も続くイベントになるなんて、すごいですよね。ちなみに、『Love sofa』にはどんなコンセプトを込めてたんですか?

最初にコンセプトは考えてたんですが、今となっては忘れてしまってます…。すごく緻密に考えた記憶はあるんですが…。でも、イベントが無事に終わって少しした頃に、倒れて入院してしまうんですよ。

え?

脳にウィルスが入って、2ヶ月くらい意識不明の状態でした。おかげさまで意識は戻ったんですが、言葉とかは忘れてて…。でもね、不思議なことに楽器だけは弾けたんです。RAITAや番長をはじめ、周りのみんなも「元気になるのを待ってるから、また音楽やろう!」とエールを送り続けてくれたので、そこからようやく『Love sofa』が本格的に動き出すことになりました。

いろいろ急展開がありつつも、Sundayカミデさんのそばには必ず支えてくれる人がいますよね。で、いよいよ本腰を入れていくことになると。

なんかね、自分的には1回死んでる感じなんですよ。だから、22〜23歳くらいから余生を過ごしてる感じ。そこまで深くは考えず、あくまでも余生なので…。

余生ですか…なるほど(笑)。シリアスな側面もありますが、今もお元気で何よりです!では、その余生が新たにスタートしていく中で、『Love sofa』やバンド活動はどう形成されていったんですか?

自分たちで何かをする時に必要だったのは、バンドの数というか、とにかく状況的にも自分たちしかいなかったので、誰かと知り合ったら「バンド作ろう!」としきりに言ってましたね。『Love sofa』は人気のバンドを呼ぶんじゃなくて、自分たちの広がりでバンドを作りながらカタチにしていったイベントなんです。A.S.PもBAGDAD CAFE THE trench townもそうだし、BOWLING No.9もそう。

そういう広げ方、カタチの作り方はめちゃいいですね。

A.S.Pが1度解散するタイミングでは、しゃかりきコロンブス。(現ワンダフルボーイズ)を作り、ボーカルにもチャレンジしました。自分で歌ってみたらどうなるんやろうというギャグだったんですけど、最初に作った曲の反響がめちゃよかったんです。「天王寺ガール」という曲なんですが、「めちゃいいやん!Sundayも歌った方がいいんじゃない!」とA.S.PのAZUちゃんに言われました。今までジャズやラテン、レゲエしか作ってこなかったけど、キャッチーなのもアリかと思って始めることにしたんです。

実際にボーカルとして歌ってみると、気持ちよかったですか?

めちゃくちゃ下手やなと。それ以外の感想はなかったです。自分でも分かってたんですけど、奇妙礼太郎君やマッカーサーアコンチのアチャコさん、ラリーパパ&カーネギーママのチョウ・ヒョンレさんとか、身近な知り合いも「いいやん!」と言ってくれて、その言葉だけを強く信じて今までやって来れてます。

それはお世辞じゃないと思いますよ。素人の僕が言うのもおこがましいですが、優しさとか独特の抜け感が心地いい歌声だなと!Sundayカミデさん自身、いろんなバンドを組んでる中で担当パートはそれぞれありますが、立ち位置的にはどんな感じなんでしょうか?

基本的には全てにおいてリーダーで、自分が責任を持つ立場ですね。『Love sofa』もオーガナイザーとしての責任があるし、その部分だけはしっかりしないといけないと思ってます。何か問題が起こったら「はい、責任者です」と、出ていくだけ。昔からやってることは変わらないし、責任者キャラなんですよ。

なるほど。バンドの話の流れで聞きたいんですが、これまで組まれてきたバンドは音楽性もそれぞれ異なり、幅も広いと思います。その理由を教えてもらえればと。

「これをやろう!」と決めて動き出す感じですね。例えば、RAITAはレゲエが好きなので、彼の作るレゲエのバンドができたらいいなと思って動いたり。そもそもレゲエの語源自体は音楽のジャンルというわけじゃなく、みんなで集まるための一つの口実みたいなもの。「レゲエで集まろう」って、僕の中ではそんな感じなんです。A.S.Pの場合は、ジャズやボサノヴァをやると決めて、そこから勉強していきましたね。

Sundayカミデさん自身の音楽性が強く反映されてるわけではないと?

バンドにもよりますけどね。当時はDJをたまにしたり、ジャズやボサノヴァのレコードもたくさん持っててよく聞いてましたが、自分がジャズやボサノヴァのバンドをやるとは思ってませんでした。でも、RAITAや番長、岩井ロングセラー、今は名前を変えて活動してるけどマイケル☆パンチといったメンバーが、みんな甲陽音楽学院出身だったんです。そもそもジャズの基礎ができてたから、僕とボーカルのAZUちゃんが曲を作り、いいアレンジを加えて仕上げていく。とにかく曲が完成するまでのスピードも、バンドのスタイルが確立されるスピードも早かったですね。

アンコールの時に初対面のやついいちろうさんを呼び込んで、「君が誰かの彼女になりくさっても」を一緒に歌ってもらった。今思うとすごい失礼な無茶振り…。
1234
Profile

Sundayカミデ

OSAKAUNDERGROUNDのPOPMAKERでありワンダフルボーイズのボーカル。 21世紀の名曲「君が誰かの彼女になりくさっても」の作詞・作曲としても知られ、様々なアーティストへの楽曲提供やサウンドプロデュースも手掛ける。 また、ラジオ、トークライブ番組でのMCや自らのエピソードをまとめたエッセイ集を出すなど活動の幅は多岐に渡る。自身がオーガナイズするイベント『Love sofa』はスタートから22年目を迎え、熱烈な音楽ファンから深く愛されている。

https://www.sundaykamide.com/

CATEGORY
MONTHLY
RANKING
MONTHLY RANKING

MARZELでは関西の様々な情報や
プレスリリースを受け付けています。
情報のご提供はこちら

TWITTER
FACEBOOK
LINE