【ぼくらのアメ村エトセトラ vol.1】 濃厚で、衝撃的で、眩しかった時代。編集メンバー&カメラマンと振り返る『カジカジ』×アメ村の26年。


1995年~東京の裏原ブームを終焉に導いた(かもしれない)、大阪ファッションカルチャーの影響力。

高松:正男さん、前に「街の眼」撮ってるときに、大阪には裏原ブームが入ってこなかったって言うてませんでした?

正男:そうそう、大阪には裏原が来なかった。ステューシーとか80年代後半からあったけど、グッドイナフとかを藤原ヒロシさんが紹介してそれがすごい受けて、90年代前半の東京は裏原の人ばっかりになって。みんな紺とかグレーとか黒で裏原系のブランドロゴの入ったトップスに、下はデニム。全盛期の94~98年ぐらいの東京はもう裏原一色で、古着屋もセレクトショップも危うい、このままではやばいっていう状況までなったんですよ。

ありましたね、1990年~2000年ぐらいの裏原ブーム。

正男:でも、全国どこでも裏原を扱う店はあったんやけど、なぜか大阪だけはなかったんです。だから、全盛期でも大阪には裏原はいてない。京都にはお店もあったし裏原系もいてたけど、大阪には全然いない。むしろ、裏原のかっこしてたら恥ずかしいみたいな(笑)

高松:それは大阪気質かもしれないですね。

正男:その頃の大阪は音楽の影響を受けてる人がすごく多くて、グランジの人とかスラッシュメタルのスケーターの人とか、そういう他の街にはいてない人が増えてきてて。だから「街の眼」でも大阪らしい人を選んでいこうってなって、古着でおもしろいかっこしてる人、音楽系の人、スケーターの人、あとB系の人。東京のファッション誌から取り残されている人を撮ろうっていうことになって。

裏原一辺倒の東京のファッション誌では、絶対に取り上げないスタイルをあえてフィーチャーしようと。

正男:そういうことをやってたら、『Boon』の編集の人が、大阪特集をやりたいって大阪に来たんです。『Boon』はアメカジの雑誌やったんで、裏原ブームにアメカジが押されて、一時期のスニーカーブームも終わって苦戦してる頃で。それが、大阪に来たら誰も裏原を着てないのに、東京よりファッションが盛り上がってるからびっくりして。それで、「大阪リスペクト指令」って特集を組んだんですよ。そしたらそれが、東京でバカ売れして。

東京のファッションに一石を投じたんですね。

正男:そこから、『Boon』が東京のファッションを変えたいって、「街の眼」みたいなのをやりたいってなって。それでちゃんと『カジカジ』にも許可を取って、後に「スタイルサンプル」って名前になるコーナーをやることになったんです。そのコーナーでは、元気のなくなってた表原宿系の店に行って、反裏原のスタイルを撮るんですよ。男前の店員さんにちょっと過激な、ヒョウ柄のシャツによくわからん柄のパンツ履いてもらって撮ったり。大阪のページもあったから、そこではもう下駄ばきの子とか過激なコーデばっかり載せて。

裏原以外にもこういうスタイルがあるんだ!という既成事実をアピールするわけですね。

正男:やってみたら、このスタイルサンプルもすごい好評で。別冊まで出るぐらい。あれはもしかしたら、裏原ブームを終わらせたかもしれない(笑)

おお、すごい!!でも現実に、東京のファッションの潮目が変わったんですか?

正男:お客さんが減ってたアメカジの店とか表原宿の店にも人が来るようになって、トッド・オールダムの柄もののパンツが即売り切れになって。裏原の人はそれまでデニムしか履いてなかったのに。

羯磨:アメ村化していったんですね。

正男:アメ村の影響はモロに受けてる。アメ村よりアイテムが高くて着こなしが上品になった、ややこしいファッションみたいな(笑)。あのときは大阪のストリートファッションが、もっとも東京に影響を与えた時代で、多分それ以降はないと思う。全国のファッションをアメ村が引っ張ってた時代。

羯磨:僕がアメ村初めて行った時は、多分その辺の時代でした。誰も裏原を着ていない。

正男:それが東京の編集者からしたら脅威で、どういうこと?別の国やんって。

羯磨:『IMA:ZINE』の谷さんがビームスのバイヤーとして東京にいた頃、企画会議で90年代がテーマになったとき、谷さんが言うことぜんぜん通じなかったって言うてました。東京で流行ってたものが軸やから、「大阪ではあえてこれ履いてました」みたいなのが全く通らなかったらしいです。それぐらい、大阪と東京では違いがあったんやなって。

やっぱり、ネットがない時代だったから、それだけ文化の差が出たのかもしれないですね。そして、東京の裏原ブームを、正男さんが終わらせたと。

正男:いや、僕は実は裏原めっちゃ好きなんですよ。でも仕事としてはそういう役割があったってだけで。

羯磨:そういえば昔の裏原の服、けっこう持ってはりますもんね。

正男:僕自身はあのかっこは好きやったから。個人的にはね。

90年代のアメ村らしさを作った『ラブバズ』が持ち込んだのは、「レギュラー古着」という概念。

アメ村が全国のファッションを牽引していた時代があったんですね。

正男:アメ村の90年代のファッションがこれだけ盛り上がったっていうのは、『ラブバズ』ができたってことも大きいと思う。

高松:確かに。『ラブバズ』が古着の定義を変えた感じはありますね。

正男:『ラブバズ』っていう古着屋ができて、そこが古着の価値を変えたんですよ。それまで古着といえばヴィンテージ。みんな決まったかっこしてて、アメカジかロックンロールか、モッズか、型にはめないといけないっていう。

羯磨:コテコテでしたもんね。

正男:ヴィンテージとかレアスニーカーしかなくてすごい高騰して、もう簡単に買えない値段になってしまってたんですよ。そんなときに、『ラブバズ』っていうお店ができて。そこはレギュラー古着っていう、ヴィンテージじゃない古着を扱ってるんですよ。どうでもいい、変な古着をアメリカで大量に買い付けてきて。パチもんのスニーカーとかバンドTとか。バンドTなんていまは普通ですけど、当時はだれもやってない。

高価なヴィンテージに対して、もっと気軽なレギュラー古着っていう概念が新しかったんですね。

正男:『カジカジ』でも勝手に“ネオ古着”って名前をつけて特集を組んだら、それがまためっちゃ好評で。

羯磨:古着やけど、アメリカのレコ屋とかで売ってる新品買って置いてたり。

正男:あと、ぬいぐるみとか。とにかく当時のヴィンテージの古着屋とは全然違う、ロックンロールのにおいが一切しない。『ラブバズ』ができたのと、「街の眼」で変なかっこが増えてきたのと同じぐらいの時期やと思う。

『ラブバズ』の存在が、アメ村の自由なファッションの原動力になっていた?

正男:そうそう、コーデがお決まりじゃなくなった。『ラブバズ』のせいで、何を着ても良くなったというか。変なラメの服でもいいし、ジョギパンみたいなの穿いてもいい。「おもろかったらいい」みたいな感覚が、多分日本で最初にそこから生まれたというか。世界でもあんまり類をみないスタイルが生まれたと思う。

羯磨:今の古着のベースですよね。

その当時の大阪って、すごい独自のファッション文化が育まれてたんですね。

正男:大阪は適度に街が狭いから、いろんな人を見れるんですよ。東京はファッション系の人はここ、音楽系はここって棲み分けしてるけど、大阪は狭いからいろんな人が集まる。だから音楽に興味ない人もバンドの子らのかっこ見て、かっこええと思ったら音楽知らんのに影響を受けたりとか。ネットもない時代やからそういうのがミックスされたっていうのもあるんちゃうかな。96~98年ぐらいで一気にそういうスタイルができてきて、あれが日本で最初のストリートファッションやったんちゃうかなと思います。

2000年代~賑わいは堀江に移り、スタイルは画一化され、アメ村に活気がなくなった時代。
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Profile

高橋 正男

プロスチールカメラマン/大阪府堺市出身。

90年代にファッション誌『カジカジ』連載のストリートポートレート「街の眼」で人気を博す。現在も雑誌や広告、カタログなど幅広い媒体で活動。Instagramでは90年代の「街の眼」を公開中。

Profile

羯磨 雅史

編集者・PR/滋賀県出身。

『カジカジ』編集長を経て、現在は中津のセレクトショップ『IMA:ZINE』に所属。QUALITY LIFE GUIDE MAGAZINE『CC:COLORS』をWEBで展開。

Profile

高松 直

編集者/大阪府枚方市出身。

『カジカジ』編集長を経て、現在はフリーランス。元『カジカジ』編集部メンバーによる『STAND MAG』の一員として、イベントや企画なども手掛ける。

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