ちょっといびつなパワーバランスこそ僕らの同級生感。Podcastも始動した注目のお笑いコンビ<例えば炎>の愛すべき関係性について。


中学の頃の先生に「タキノについていくと人生棒に振る」と言われたことも。「エレガンス」は地元・宝塚にあるラブホテルから取っています。

2人の出会いは中学ということですが、その頃のお話も聞かせてください。

タキノ:宝塚の公立中学校で中1の時に同じクラスになって、田上とは席が前後やったんで仲良くなりました。3つの小学校から生徒が集まる中学で、田上は中学生から宝塚に住み始めたから、最初は誰とも仲良くなかったんです。僕は当時から冗談を言うのが好きやったけど、調子に乗ってるって他の小学校の子たちに広められたくなくて、最初はちょっと控えめにしてました。そしたらまだ田上に友達がおらんってことを知って、仲良くなりやすいなと思ったんです。だからプリントを回す時に「好きなスパゲッティ何なん?」とか冗談を言ったりしてました。出会った頃の田上は体もちっちゃくて頭の形も変でしたね。

田上:中学の3年間で身長が30cmくらい伸びたんです(現在は180cm)。タキノは出会った頃からこのままの骨格でデカかったです。

タキノ:そんなわけないやろ。

田上:親が宝塚に戸建を買ったんで、誰も友達はおらんけど宝塚の中学に行くことになったんです。1人で学校を歩いてたら、ドカベンでトノマが山田太郎を見た時くらいデカいやつを見かけて、最初は中3の子やろなぁと思ってました。そしたらそいつが教室の目の前の席におって、後ろ振り返って「好きなスパゲッティ何なん?」とか聞いてきたんです。僕は友達おらんし小学校の前情報もゼロやったから、とにかくナメられたらあかん、どこのグループに所属するかむっちゃ大事やぞとか思ってて。「カルボナーラ」ってちっちゃい声で答えた覚えがあります。

タキノ:クラスは中1の時しか一緒じゃなかったんです。でも家の方向が一緒でよく一緒に帰ってて、モンハンやってたり塾が一緒やったりっていう共通点もあって仲良くなりました。

田上:ずっと一緒に変なこともしてました。そしたら中1の時に担任やった高原先生に、「あんたタキノについて行ったら人生棒に振るよ」って言われて、中2、中3は別のクラスになりました。

タキノ:田上は体が小さくて僕がだいぶデカかったから、僕が田上に無理やり変なことさせてるみたいに見えてたらしくて。でもそれは田上が独自に意味わからんことしてただけなんです。

田上:僕は今と一緒でサボりたがりなんで、受けたくない授業があったらすぐ保健室行ったりしてて。それも相まってタキノにいじめられてるイメージがついてたらしいです。全然違うんですけど。

タキノ:田上のお父さんは司法書士、お母さんは公文の先生をしていいて。むっちゃきちんとした家の子を僕がおかしくしてるみたいなニュアンスやったんかもな。

田上:僕が普通に勉強できるっていうのもあったんでしょうね。悪い方向に引っ張られてるんじゃないかって心配してくれてたんやと思います。

タキノ:僕は中1と中3で高原先生が担任やって。当時の教員で唯一肩パットの入ったスーツを着た先生やったんですけど、30回くらい吉本行けって言われましたね。掃除の時間に先生と一緒に教室をぞうきんで拭く競争をしてて、先生が「よーい」って言った瞬間、僕が黒板の角で背中をえぐってしまって。痛くて叫びながら倒れ込んだんですけど、僕の背中にめっちゃ血がにじんでるのを先生が見て爆笑してました。それに対して僕が「こんなんありえるんですか。生徒が血流してるのに」とかって反論したりとか。むっちゃ愛を持って接してくれる大好きな先生でした。

田上:タキノはほんまに変わってなくて、今もやってる失礼ボケを当時からずっと続けてるんです。英語の先生に向かって何言ってんねんみたいな質問を永遠に続けたりとか。挙げ句の果てには「ひどいですね。生徒がこんなに必死で聞いてるのに教えてくれないなんて」とか言って自分を正当化するのも今と変わってないです。

2人が芸人になったきっかけも教えてください。

タキノ:僕はずっと「芸人になれ」って言われてきたんですけど、ゴルフもやってたんで全部失敗したら30歳くらいで芸人になろうかなとか思ってました。そしたら22歳の時にアルバイト先で初めて芸人さんに出会って、その人がめちゃくちゃ面白くて衝撃を受けたんです。もう辞めちゃったんですけど、松竹芸能に所属していた元パンドラの福田さんっていう方です。福田さんが出てるytv漫才新人賞の予選をテレビで見たり、角座の舞台を観に行かせてもらったりして、めっちゃカッコいい、僕も福田さんみたいに芸人になりたいって考えるようになって。だから「福田さんの弟子にしてください」って言いに行ったら、「今の時代そんなんちゃうねん。養成所に入れ」って言われて。僕は養成所があるのも知らなかったので、「じゃあ松竹の養成所に入ります」って言ったら「お前は吉本に行け」と。そんな流れでNSCに入りました。今思うと英断ですよね。
当時大学4回生やったんで就活も辞めて、次の春からNSCに入学する準備をしてたんです。そんな時にあった地元の飲み会で、「俺は将来芸人になる。NSCに入るねん」ってみんなに言うたら、その場にいた田上も「俺もいこかな」って言い出して。福田さんから相方見つけるのが1番しんどいって話を聞いてたんで、同級生の田上と組めたらめっちゃいいやんって思いました。でもお酒も飲んでたし、その場だけのノリかなって思ってたけど、翌日改めてLINEで聞いてみたら、「ほんまに行くわ」って返信がきて。冗談じゃなかったんやって嬉しくなって、そのまま一緒に難波までNSCの履歴書を取りに行きました。

田上:僕はその飲み会まで1回も芸人になりたいって思ったことなくて。4回生の時点で8回生まで通わなあかんっていうのが確定してたから、とにかく大学を辞める理由がほしかったんです。友達も1人もおらんくて、この日々をあと4年繰り返すのはやばすぎると思ってて。大学時代も一緒に遊んでいた地元の友達はみんな要領良くやってたのに、俺だけ何もできてなかったんです。
その頃『ウォーキング・デッド』とか『プリズン・ブレイク』にハマって、いつか世界はおかしくなるから、そうなったら何もやる必要なくなるやろって思い込んで、やらなあかんことを全部放置してきたんです。世界が終わる予言の日も毎回チェックして、もうちょっとしたら消滅するから大丈夫って自分に言い聞かせてました。そしたらいつの間にか卒業する3月がきちゃって、どうにかせなと思ってたらタキノが芸人になるって聞いたんで、大学を辞める理由にもなるしタキノはおもろいからついていこっかなって。あかんかったら親戚の会社に入れてもらおうと思って芸人になりました。

タキノ:田上は逃げる理由がほしかったんですよね。でも福田さんに同級生コンビはええでって聞いてたから、お互いWIN-WINではありました。

田上:まぁ結局「大学と両立するならNSCに入ってもいいよ」って親に言われて、すぐには大学を辞められなかったんですけどね。僕の親は堅くてちゃんとしてるんで、許してもらえませんでした。

タキノ:とんでもないキメラが生まれてもうたな。

田上:妹はANAの客室乗務員、弟は大阪大学の大学院に行っていて、ほんまに僕だけダメなんです。大学もNSCも両立するならいいよっていう1番いらんパターンになってもうて。結果的には5回生の前期でゼロ単位やってそのまま辞めさせてもらいました。

最初はNSC41期生として入学したものの、出席日数が足りなくて卒業認定されなかったんですよね。

田上:僕は「大学を辞める」のが芸人になる時の夢やって、やる気があんまり出なかったというか。途中で完全に夢が叶ってしまったんです。

タキノ:僕も福田さんにガーメントバッグを見せられた時点で夢は叶ってるんです。2人ともそんな感じやったんで、あんまり出席できなかったですね。僕はNSCに入ると決めてから漫才やM-1グランプリを見るようになったので、41期の1年間はNSCにこそきちんと通えてなかったけど、お笑い自体にハマっていった大切な時期でもありました。

田上:当時は「エレガンス」っていうコンビ名やったんですけど、「傀儡兄弟」という名前でインディーズライブに出たりもしてました。

タキノ:宝塚から難波まで往復1,000円くらいかかるから、舞台もないのになんで難波行かなあかんねんっていうのもあって、お金を無駄にしないようインディーズライブにも出てました。結局だらけてNSCには行かなくなっちゃいましたけど、その頃出てたインディーズライブが結構楽しくて、芸人っていいなと思うようになったんですよね。

田上:インディーズ界隈ではなんとなく評価されてて、「お前らおもろいな」って言ってもらえてたから続けてこられました。

その後、NSC43期生として再スタートする訳ですが、吉本以外の事務所は考えなかったんですか?

タキノ:他事務所も考えたんですが、そうなると「吉本やったらどれくらい評価されるんかな」「劇場メンバーになれるんやろうか」って、吉本を基準にした自分たちの実力が気になってたと思うんです。そんなの思いながら芸人を続けるのは嫌やなぁと。43期で入った時は授業も全部出席して、集大成の大ライブも上位で締めくくれたんでほんまに良かったです。なんで41期の時も同じようにせんかったんやろうっていうのもあるけど、僕らにとっては必要なステップやったんかもしれないですね。

41期生時代のコンビ名「エレガンス」は、地元・宝塚のラブホテルから取っているんですよね。今や冠ラジオのタイトルにもなっています。

タキノ:「エレガンス」は苦渋を舐めた時代のコンビ名でもあって、「エレガンス」あっての今の僕らやなとは思いますね。昔を帳消しにすることもできるし芸歴はリセットされたけど、当時の思い出を残したまま芸人をやっていきたいなと。ラジオの名前にもなって、<エレガンス>も喜んでくれてると思いますね。

田上:2人の思い出といえば、やっぱり「エレガンス」ですもん。上品な宝塚の街にずっとある異質な存在ではあったんで。いつも裏口の駐車場にオーナーさんのものらしきベンツが停まってるのをこっそり確認してました。

タキノ:僕らは利用したことがないんでね。ラジオでは言ってますけど、狩森さんだけが唯一行ったことあります。

田上:ギリギリまでは行きましたよ。駐車場の線ちょっと超えてみるとか。

2人の地元・宝塚にまつわる思い出とかってありますか?

タキノ:NSC時代は、実家の近くにある宝来橋の高架下でネタ合わせをしてました。宝塚って上品な街やから、ラップバトルとかダンスをやってる人もおらんし、ネタ合わせって2人で言い合いしてるようにも見えるから結構怪しまれてて。高架下やったらそこまで目立たへんかなって。田上は合間で水切りとかやってたな。

田上:僕、水切り得意なんで。でっかい石を投げたらどれくらい水しぶきが上がるかとかもやってました。末広中央公園っていう公園にも行ってて。ちょっと舞台みたいになってるところがあったので、そこをステージに見立ててネタ合わせをしてましたね。

タキノ:実家に車があったんで、雨の日は車の中でネタ合わせをしたりもして。ほんまに芸人になりたてというか、ネタ合わせをするのが楽しい時期だったんです。

田上:でも宝塚はそんな場所じゃないんで、あんまりバレないようにはやってました。しかも基本は宝塚歌劇の近く、誰もが思い描くザ・宝塚みたいなところでやってたから、ほんまに場違いすぎましたね。

忙しくてもネタをやり続けている人ってカッコいい。今後も劇場で面白いライブをいっぱいやっていきたいです。
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Profile

例えば炎

大阪NSC43期生のタキノルイ(前)、田上(後ろ)からなるお笑いコンビ。共に宝塚出身で、中学校の同級生同士で2020年4月にコンビを結成。最初はNSC41期生として入学したが出席日数が足りず、1万字の反省文を期日から遅れて提出するも受け取ってもらえなかったため、43期生として入り直すことに。2024年には『M-1グランプリ』の準決勝に進出し、敗者復活戦をきっかけにじわじわと人気に火がつく。2025年3月に開催した初単独ライブ『~エレガンス×傀儡兄弟×例えば炎 スリーマンライブ~「ワレワレハタトエバホノオダ」』は即完売、ファンから贈られたフラワースタンドの異例の数も注目を集めた。雑誌『anan』(マガジンハウス)のビューティー企画「美ジュ-1グランプリ」への出演も話題に。

タキノルイ: Instagram / X
田上: Instagram / X

YouTube: @例えば炎研究所

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