トラックで、映像で、リリックで、今の自分をさらけ出したい。大阪を愛するマルチアーティスト・ISSEI TERADAの“初”挑戦。

ビートを打ってリリック書く…だけでなくビデオも撮る。その3拍子を、それも脅威のペースでやってのけるアーティスト兼クリエイターがISSEI TERADAだ。10代で始めたヒューマンビートボックスから始まり、音楽と映像で独自のスタイルを表現してきた。手がける映像作品は年間に40〜50本。映像ディレクターとしても堂々の実績を誇る一方で、ここ5年ほどはフロントマンとして、盟友であるKOPERUとのユニット・HYPER TAMADEをはじめとするラップ活動も活発化。特に今年は、20年以上名乗ってきたアーティストネーム・ISSEIからフルネーム・ISSEI TERADAに改名しただけでなく、この12月にはEPリリースからのソロワンマンライブ開催と、怒涛の加速っぷりを見せている。何が彼をそこまで突き動かすのか。その原動力が知りたい!ということで、若手時代の話から根掘り葉掘り聞いてみることに。集合場所は本人もお馴染みの『FAT DOG STAND』。黄色のセットアップに身を包み、ただならぬオーラを放ちながら登場したが、話してみると大阪の人懐っこい兄さん的な雰囲気。そんな彼のヒストリーや制作活動にかける想いとは。
「ボコられてもいいからやってみよ」と、アメ村でストリートライブを始めた。

音楽、映像と聞きたいことがありすぎるんですが、まずはISSEIさんのルーツからお聞きできればと思います。生まれも育ちも大阪ですよね?
はい、住吉と西成が地元で、その2箇所を行ったり来たりしていました。なので、ザ・大阪人ですね。特に片方の地元は西成の中でも、実家の前にホームレスが寝てたりするようなザ・西成ってところです。
たしかに住吉、西成で生まれ育つと大阪色が濃くなりそうですね。音楽との出会いはいつ頃だったんですか?
まず小学校高学年の時に、従兄弟の影響でヒップホップを知りました。ちょうど日本語ラップのアーティストがテレビにも出始めた頃で、しかもキングギドラもいればRIP SLYMEもいたりと、多様化全盛期の時代だったんです。「いろんなスタイルおるのおもろ!」ってなって、ディグり始めました。
90年代後半〜00年代にかけてのラップブームの時ですね!
そうやってヒップホップをディグる延長でヒューマンビートボックスに興味を持ちます。お金や楽器がなくても、体一つで音楽ができることに惹かれてやり出しました。最初はいろんな音楽をビートボックスで真似するくらいやったんですけど、高一の時に人前で披露したくて、天王寺の駅前でストリートライブを始めたんです。でも天王寺って自分が求めるストリートカルチャーの空気感ではなかったので、思い切ってアメ村の三角公園でやりだすようになります。

思い切りましたね!おそらく当時のアメ村というと、緊張感のある時代では?
そうなんです。やんちゃな人らがいてはる時代で、自分はまだ15歳とかやからめっちゃビビってました(笑)。でも「ボコられてもいいからやってみよ」と思ってやり出したら、意外とそういうよく分からん奴を受け入れる土壌があったのか、続けていくうちにアメ村界隈のラッパーだったりヒップホップ関連の先輩たちが仲良くしてくれるようになりました。
意外と!どういった界隈と繋がりが生まれたんですか?
ヒップホップバンド・Improve(インプルーブ)のKN-SUNっていう人との出会いは大きかったですね。その方が当時アメ村でやってた服屋に入り浸っては、そこにいてはる先輩方にヒップホップカルチャーについて教えてもらいました。

プレイヤーとしてもヘッズとしてもいろんなものを吸収されたわけですね。
ありがたいですね。そこから同じくヒップホップバンドである韻シストを教えてもらいました。もう曲聴いた瞬間にめっちゃ好きになって。当時、韻シストのポスターを自分の部屋に貼るくらい好きでした(笑)
熱烈なファンだ(笑)
そこから少し経って、初めて韻シストのライブを見に行った時に、憧れてた人たちの演奏を目の前で見て「俺もかましたい!!」ってなって、勝手にステージに上がってビートボックスを披露したんですよ(笑)
韻シストのライブでマイクジャックですか!すごい!
もちろん他のお客さんからは「なんやこいつ」状態でしたけどね(笑)。さすがに自分でも「こんだけ勝手なことしたらしばかれるやろな」って覚悟してたんですけど、ライブのあと謝りに行ったら、韻シストのメンバーは意外と面白がってくれて。そこから何かと気にかけてくれたり、一緒のイベントに出させてもらえるようになったりしたんです。

漫画の世界みたいなデビューですね(笑)。トラックメイクを始めるのはそのあとですか?
トラックメイクは、18歳の時にアメ村で行われたとあるビートボックスの大会に出たのがきっかけです。AFRA君とかHIKAKIN君とかも出てた気がするんですが、日本中からビートボクサーが集まる大会で優勝できて。でも、その次の日に、普通に朝からバイトに行く自分を振り返った時に「ビートボックスで日本一になったのに、生活は何も変わってないやん……」ってなってしまって。もちろんビートボックスを否定してるとかではなく、自分にとってはビートボックスだけで飯を食っていくのは難しいんじゃないかって考え始めたんです。そこで、前々から興味のあったトラックメイクを始めました。

将来を見据えたチャレンジだったんですね。
大阪の良いところなんですけど、そういうのやってると「今度ビート提供してや」って言ってもらえるんですよ。そのおかげもあって、いろんなラッパーに自分のビートを提供したり、いろんなアーティストを迎えたアルバムを出したりするようになりました。その流れでBASI君のバックDJもさせてもらうようになったり。

一気に表現の幅も広がりそうですよね。映像も同じくらいのタイミングで始められたんですか?
そうですね。僕がトラックメイクを始めた時にちょうどYouTubeが日本でも始まったんです。当時、ネットに動画をアップできるサービスにみんなざわついてましたね。僕はその時に「自分がビート提供したアーティストの曲のMVを作ってアップしたら面白そう!」と思って、実家にあった8ミリのカメラで撮影したんです。過去に撮ってもらってた自分の運動会のメモリーに上書きしながら(笑)
やると決めたらとことんやる行動力がISSEIさんのキャリアを形作っている感じがしますね!ではそこから大阪のアーティストの映像を作っていくんですか?
はい。その頃って日本でもレゲエシーンが盛り上がり出した頃で、自分も大阪のレゲエシーンとは少しずつ繋がっていたんですけど、三木道三の『Life Time Respect』のMVを作られた山本克則さんが、僕が当時の限られた機材で作った映像を見て「お前はこれから映像で飯を食っていけるようになるから、本格的な一眼カメラを買ってこい」と言ってくださって。
あの「一生一緒にいてくれや」のMVを手がけた方ですか!?
でも当時の自分からすると、そういう機材はなかなか手が出にくい金額やったんですけどね(笑)。でも山本さんからは「それを買いさえすれば、その機材代のもとが取れるくらいの仕事がすぐに来るから」って断言されて。けっこうきつかったけど、その言葉を信じてカメラを買ったら、その金額分の仕事を山本さん自身が投げてくれたんです。

めちゃくちゃ良い話!粋な方ですね…!
その時に任せてもらったレゲエのアーティストのMVがYouTubeで世に広まると、他のアーティストからも声をかけてもらえるようになって、ビデオディレクターとして本格的にやるようになりました。それが20歳くらいの頃ですね。
マルチタスクなキャリアが、20歳で既に始まっていたとは……。
なんでもすぐ飛びつく人間なんです(笑)

ISSEI TERADA
ヒューマンビートボクサー、ビートメイカー、映像ディレクター、デザイナー、そしてフロントマンと多様な顔をもつ大阪出身のマルチクリエイター。ヒップホップを軸に幅広い音楽のエッセンスを落とし込んだサウンドと、洗練されつつもどこかに彼独自のユーモアを感じさせる映像作品の二刀流で幅広く活動し、今ではメジャーシーンからのオファーも多数。Produce・Lyric ・Act ・Director...と、さまざまな形でクレジットされる彼の名前だが、2025年にはそのアーティストネームをISSEIから本名・ISSEI TERADAへ改名。それを皮切りに、シングル・EPのリリースに続き、初のソロワンマンを敢行。長いキャリアにおける転換点を経て、さらなる飛躍を予期させる。