消えていく記憶の代わりに得た、光。ディジュリドゥアーティスト・GOMAさんが歩んできた半生といくつもの分岐点を今、再びつなげてみる。
オーストラリアの先住民族アボリジナルの伝統楽器であり、世界最古の管楽器とも言われるディジュリドゥ。その奏者として国内外で活躍する一方、交通事故の後遺症で光の世界を描くようになり、画家としても目ざましい活動を続けているGOMAさん。1994年にディジュリドゥと出会ってから27年、そこには転機や飛躍、苦難といった生きてく上でのいくつもの分岐点がありました。これまで歩んできた道をGOMAさんに振り返りながら語ってもらうことで、今の時代を生きる僕らにとっても必要なものが見えてくる。そんな気がしてます。
ディジュリドゥが吹けた時、「これはやった方がいいぞ!」という何か得体の知れない直感があった。
まずは、GOMAさんとディジュリドゥとの出会いのお話から聞かせてください!1994年に出会ったそうですが、初めて触れた時はどんな感覚でしたか?
HIP HOPのダンサーとして活動していた時に、スタジオで見かけてちょっと吹いてみたんです。ディジュリドゥは循環呼吸という音を途切れさせずに鳴らし続ける呼吸法が必要で、なかなか簡単にできるものじゃないらしいけど、吹いてみるとすぐにできてしまった。それで、おもしろい楽器だなと思って。
そんな簡単に吹けたんですね…。何か楽器をしていた経験があったとか?
何もやってないし、ターンテーブルをいじってたくらい(笑)
そうなんですね!でも、おもしろい楽器だと思うだけじゃなく、そこからディジュリドゥと共に歩むことになるわけですが、何か感じるものがあったんですか?
難しいと言われる呼吸法がすぐできたこともあるし、「これはやった方がいいぞ!」という何か得体の知れない直感があってね。人間には向き不向きがあったり、努力だけでは簡単に到達できないセンスもあると思うけど、ディジュリドゥには本能的に共鳴するものを感じたんです。
まさに運命の出会いだったと。そこからどうやってディジュリドゥを学んでいったんですか?
当時、日本でディジュリドゥを知ってる人もほとんどいなくて、楽器店で聞いても「何それ?」状態。ネットも普及してない時代だから、雑誌や図書館でいろいろ調べて手紙を書いて、CDを送ってもらいながら完全に独学で吹いてた。
そうなりますよね。ディジュリドゥを始めたGOMAさんに対して周囲の反応は?
ダンサーのイベントでも踊らずに、いきなりディジュリドゥを吹いたりしてたから、みんなは「おい、大丈夫か?」って(笑)。でも、自分の直感を信じてずっと吹き続けてたかな。ただ、やればやるほどディジュリドゥに対する情報量の少なさを痛感するし、独学の限界も感じるようになっていってね。
現代と違って何でも情報を得られる時代じゃないですし、GOMAさんの熱量に対して情報量が圧倒的に追いつかないと。
そう。だから、やっぱり日本でこのまま活動するのは無理だなと。他の人の演奏も聞いてみたかったし、本物を知るためにオーストラリアで修行することを決意したんです。
本場の演奏を見た瞬間、これまでの自分を否定するような感覚になったし、少しの間は吹けなくなるほど衝撃的だった。
オーストラリアへ渡ったのが1997年。現地ではどんな修行を?
オーストラリアの北部にあるダーウィンという街に行き、まずはディジュリドゥショップで働き始めました。ショップにはアボリジナルが作ったディジュリドゥが送られてくるので、それを吹いて値付けしたり、お客さんに販売したり、インストラクターするのが主な仕事。その傍で、バスキングという道で演奏するスタイルで活動も続けてた。
極東の地から日本人がやって来ることにダーウィンの人たちも驚いてたでしょうね。GOMAさん自身も本場のディジュリドゥを聞いた時は、自分の演奏との違いや驚きを感じることはありました?
はっきり言って、衝撃的だった。独学でやってきたということもあるけど、そもそも演奏スタイルも全く違ったし、自分の感覚にある音楽と呼べるものでもなかった。カウンターカルチャーを思いきりくらってしまった感じ…。
そんなにも違ったんですね。
当時は<ジャミロクワイ>などもディジュリドゥを取り入れて活動してて、楽器としても認知されていたから西洋音楽のイメージもあったし、自分もその感覚に近づくために本場へ行ったのに、実際は全く違うもの。西洋の音階ではないし、そもそも音階を奏でるわけでもない。そこに言葉が付随してくることもないので、完全に振動そのもの。そんなバイブレーションの世界に、「何やこの楽器は!」って思ったんです。
西洋人は音楽に応用してただけだったと。そもそもディジュリドゥは、どんな時に使われる楽器だったんですか?
基本的には儀式などで使われる聖なるものだけど、遊びながら吹いたりもしてるし、アボリジナルの生活に溶け込んでるもの。それに、そもそも大自然の中で吹くものなんですよ。人々の魂を掻き立てて、悪いものを退散させたりする時に使う道具だから、その違いも衝撃的だった。
実際に儀式も見られたんですよね?
アボリジナルの友だちが儀式でアーネムランドに帰るから、「ちょっと来てみない?」と誘われて。軽い気持ちで付いて行ったら、とにかくめちゃくちゃ遠かった。車で3日間走りっぱなしだし、道なき道を通って、ブッシュを抜けてようやく辿り着いた感じ。全然“ちょっと”じゃないやんと(笑)
※ブッシュ:低木の茂み
“ちょっと”の感覚が違い過ぎますね。
吹いてるのを見た瞬間、「今までやってきたことって…」と自分を否定するような感覚になったし、こんな儀式で使ってるものを気軽に使ってはダメだという気持ちにもなってしまって…。少しの間は吹けなくなるほど、衝撃的過ぎた。
相当ですねそれは。アーネムランドでは儀式以外にも、どんな体験を?
アジア人が来ることが無いような場所だし、周囲は「謎の奴が来たぞ!」みたいな感じ。でも、友だちの父が族長みたいな人だったので、溶け込むのには1ヶ月ほどかかったけど、受け入れてもらって少しの間生活してたんですよ。日の出とともにブッシュに入って、ディジュリドゥの原材料であるユーカリの木をハントして制作し、吹く。毎日そんな生活を続けてたかな。
本場のディジュリドゥを知るだけじゃなく、アボリジナルの暮らしの中にまで入ってたんですね。GOMAさんもユーカリの木をハントしてディジュリドゥを制作してたんですか?
ユーカリの木の選び方もそうだし、相当な経験と腕がないとディジュリドゥは作れないから、僕は完全にアシスタントですよ。まずは、荷物持ちからという感じで(笑)。でも、実際にアボリジナルたちと寝食を共にしてディジュリドゥ中心の生活ができたこと、現地で見たもの、体験したことは、今でも「あれ以上の体験はない!」と言えるくらい、自分の中のかけがえのないものになってますね。
「アーネムランド以外にも、いいプレイヤーがいるもんだな。この賞を取ったことを、国に帰ってみんなに伝え、広めなさい」って言葉が、自分の中にずっと残るようになって。
1998年には、アーネムランドで開催されたバルンガ ディジュリドゥコンペディションで準優勝されました。アボリジナルカルチャーの歴史に名を刻む快挙でしたが、その当時のお話も聞かせてください!
働いてたショップの仲間やプレイヤーのつながりで、みんなで出場してみようということになってね。ダーウィンにも大会はあったけどアボリジナルの方々はエントリーしてなくて、一方でバルンガは出場者の9割がアボリジナルと聞いて、「それはおもしろそう!」と思ったんです。
まさにリアル・オブ・リアルな大会!そこで準優勝という歴史的快挙を成し遂げられるわけですが、参加者としての心境は?
アーネムランドで一番大きい大会と聞いてたけど、行ってみるとすごく簡素な感じで(笑)。大自然の中で暮らすアボリジナルからしてみれば「ちゃんとしてる!」かもしれないけど、僕らからすると「えっ?」みたいな状態。ステージもドラム缶の上にコンパネを乗せたようなものだったかな。でも、さすが錚々たるメンツが集まっていて、若手からベテランまでいろんな部族の精鋭がエントリーしてた。
そんなメンツが揃う中で、GOMAさんは準優勝されました。
チャンピオンになったのは天才的奏者と言われるデビッド・ブラナシさんの親戚の方で、僕が準優勝。ノンアボリジナルとしては初受賞ということは後から知ったけど、僕自身も周囲もかなり驚きの結果だった。
各国でも話題になりましたし、この大会以降は、アボリジナルとノンアボリジナルが一緒に審査されることも無くなったと聞きました。審査員からは、どんな言葉があったんですか?
審査員の代表にはギャラルウェイ・ユヌピングさんという、このエリアにおけるアボリジナルの権威を取り戻した人がいて。その方からは、ステージ上でこんな言葉をもらったんです。「アーネムランド以外にも、いいプレイヤーがいるもんだな。この賞を取ったことを、国に帰ってみんなに伝え、広めなさい」と。
本場のディジュリドゥを学ぶために修行に来ていたGOMAさんにとって、次のステップへと後押しするような言葉ですね。
そう。それ以来、「広めなさい」という言葉がずっと自分の中に残るようになって…。結局1年くらいはオーストラリアにとどまってたけど、そろそろ次のステップに行く時期が来たかなと感じるようになり、「ディジュリドゥを広めるにはどうすればいいか」を考えた時、やっぱり音楽の力は必要だなってことに辿り着いた。
バルンガ ディジュリドゥコンペディションで準優勝した時の貴重な映像がこちら!アボリジナルたちに混じり、一心にディジュリドゥを吹くGOMAさんの姿が残されている。
本場で学んだことと、これまでやって来たことを融合させるんですね。で、その次のステップは?
イギリスに行きました。イギリスの音楽やファッション、カルチャーが好きだったこともあるし、オーストラリアは元々イギリスの植民地だったので、同じような名前の付いた場所がたくさんあったんです。植民地時代という暗い過去はあるけど、イギリスがなければオーストラリアの文化も無かったのかなと思うと、ますます気になってね。それに、ヨーロッパではディジュリドゥの認知度も高い上、ダーウィンのショップで働いてる時もヨーロッパからの注文が多いことを分かってたから、何かしらの足掛かりにはなるなと。それでロンドンに引っ越すことに。
ディジュリドゥもそうですし、GOMAさんにゆかりのあるものがどんどんつながってく感じですね。ロンドンではどんな活動を?
カムデンやスピタルフィールズなどのマーケットが毎週開催されてるので、そこで枠をもらって演奏してた。後は、知り合いを増やすために、スピタルフィールズのマーケットでは店も出してたんですよ。
え!?何を売ってたんですか?
5本指の靴下。イギリスには無かったから、日本から取り寄せて自分で染めて売ってた。それがまた、めちゃくちゃ売れてしまって(笑)。
まさかの靴下ビジネスが軌道に乗りかけるという…(笑)
当時、<NIKE>のエアリフトが発売したタイミングというのもあって、「この靴下、すごい便利!」って話題になってね。しかも、「忍者ソックス!」というキャッチーな呼ばれ方もされて、売り上げも順調だったから生活面ではだいぶ助かったかな。結局、帰国するまで2年間ほど出店してた(笑)
忍者ソックスすごい!ちなみに、ディジュリドゥの活動は?
マーケットで毎週吹いたり、ストリートでもやってたから、その噂を聞きつけた奴らがどんどん集まって来るんですよ。音楽を通じて自然と仲良くなり、そのつながりでいろんなイベントにもディジュリドゥ奏者として出演するようになっていってね。レギュラー出演するイベントもあったし、ロンドン在住の日本人アーティストともたくさんつながれた。
ディジュリドゥを広めるためのスタートとしては、順調な滑り出しですよね。それから日本に帰国されたのはいつ頃ですか?
ロンドンのイベントはもちろんだけど、当時も日本国内のイベントに出演したり、自分のツアーを組んで全国を回ったりもしてたんですよね。そして、ロンドンを離れて日本に帰国したのが2002年かな。
事故直後は、5分前、10分前の記憶も消えていく状態。きっと、消えていく記憶の代わりに、何かを残そうと思って描いてたんだと思う。
帰国後は、自身の音楽レーベル『JUNGLE MUSIC』を設立したり、3枚目のアルバムを発表したり、全国ツアーを敢行したり、ディジュリドゥを広める活動がますます加速してる感じでした。日本を離れて4年が経ち、オーストラリアやイギリスでの経験を得た上で、日本で再び活動することにどんな想いを持ってましたか?
ユヌピングさんの「国に帰ってディジュリドゥを広めなさい」という言葉通りのことを、日本でやってく覚悟だった。でも、元々はディジュリドゥの情報が乏しくて、演奏する居場所も限られてたから世界へ飛び出したのに、修行を経て結局また日本に戻って自分が広める。それって、すごく不思議なことだなと思って。
ディジュリドゥを初めて吹いた時は、想像もできなかったことですよね。
世界的にもディジュリドゥが認知されてきて、日本でもフェスやパーティーカルチャーが立ち上がっていたという時代の後押しもあるけど、自分が広める立場にいて、広められる環境があることも幸せだった。
確かに時代背景もあるかもしれませんが、歩もうと思って進んでいく道がどんどん拓けてるような感じです。その後も国内外精力的に活動されて、ディジュリドゥアーティストとしての確固たる地位を築き上げていく中で、2009年の11月に衝撃のニュースが飛び込んできました。振り返りづらいことかもしれませんが、交通事故に巻き込まれたことも少し聞かせてもらえれば。
事故に遭ったという事実はあるんだけど、今でも本当に自分が事故に遭ったのかは分かってない。病院でも「何があったか解ってますか?」と聞かれてる景色は覚えていても、事故の瞬間に意識が無くなってるから自分ではチンプンカンプン状態で、未だに事故のことは思い出せないんですよ。目が覚めた瞬間に激痛が身体中を走ったし、何かあったのは確かだけど…。
意識が無くなってるので、分かりようがないですよね。でも、命があって本当によかった。当然、音楽活動は休止せざるをえない状況なんですが、GOMAさんは事故後まもなくしてから絵を描くようになりました。それは突然なんですか?
そこも自分では覚えてなくて、どうやって描き始めたのかも記憶がない。妻に聞いたら、退院して家に帰った翌日に「絵の具ある?」って突然尋ねて、「子どもので良ければ」と渡されたもので急に点を打ち出したのが最初みたい。
これまで絵を描いたりもしてたんですか?
学校の授業や課題で少しやったくらいだから、全くないに等しい感じ。これは個人的見解だけど、今、脳損傷の治療プログラムには絵を描くことがけっこう盛り込まれていて、当時の自分は自己治癒的な感じで無意識のうちに始めてたのかなと。まぁ、最初に描いてたのは絵とも呼べないぐちゃぐちゃなもので、ただ衝動的に点を打ってるだけ。だから、絵にもなってないけど。
生きるため、復活するための本能的な衝動かもしれませんね。
今は、“ひかり”という自分の意識が戻る時のモチーフを描いてるけど、当時はただひたすら点を打ってた。きっと、消えていく記憶の代わりに、何かを残そうと思って描いてたんだと思う。事故直後は、5分前、10分前の記憶も消えていく状態だったし、無意識のうちに何かを描いて残すことで、たとえその日の記憶が消えたとしても、「昨日はこれを描きながら頑張って生きてたんだ!」って分かるから。自分を安心させるための行為だったのかもしれない。
ひとつひとつの点が、GOMAさんの生きた証だったと。そのお話を聞くと、作品の見方も改めて変わる気がします。現在も描き続けてる“ひかり”は、自分の意識が戻る時のモチーフということですたが、意識が戻る時とは?
今でも事故の後遺症はあって、簡単に言えば脳の損傷部分に電気が流れ、頭蓋骨の中で痙攣を起こして突然倒れてしまう。そんなことが、たまにあるんですよ。事故直後に比べて回数はかなり減ったけど、今もこれからもこの脳とうまく付き合ってくしかないからね。意識が戻る時というのは、後遺症で意識が無くなって倒れ、意識が戻って来る瞬間のこと。倒れる時は一瞬だから自分でも分からないんだけど、戻る時はいつも光の中を通って出て来るから、その光景をモチーフとして描いてる。
消えていく記憶に代わり、生きた証として残される点には、GOMAさんにしか見えない世界から生まれたものなんですね。この脳とうまく付き合ってくしかないということですが、なかなか簡単に受け入れられることでもないなと思いますが。
最初の頃は脳の傷に対して「何でやねん!」「負けへんぞ!」って戦うことを頑張ってたけど、いくら戦っても克服できなかった。でも、2〜3年前くらいからは「もう、いいかな」と思うようになってね。年齢的に40代後半になってきたのもあるし、この脳と共存する道を選んだ。その時初めて、自分の身体に「今まで無理させてきてゴメンな」って謝ったんですよ。すると、本当に不思議な話なんだけど、急にいろんなことが回復し始めて…。意識が飛ぶ予兆というか、微妙な電気の流れも分かるようになったから「ちょっと休もうかな」とか、電気が流れてきたら「おー来た来た。いらっしゃい!」みたいな。自分の芯の部分は自分で保ちながら、何か起きることをすごく客観視できるようになった。
すごい話ですね。でも、GOMAさん自身が自分の脳を受け入れ、共存を選んだことで本当に身体と一体になったと。ちなみに、共存によって意識が戻る時に見える光景も変わりましたか?
事故から10年以上経ち、これまでも何十回と倒れて、復活してを繰り返す度に見てきた光景だけど、その光景を改めて深く観察できるようになったかな。こっちの世界に近い光と奥の方では光の質も全然違っていて、奥の方は真っ白が強い光。そして、こっちの世界に近づくにつれて色彩の感覚も回復してくるので、色が段々と付いてくる感じ。
なるほど。奥の世界とこっちに近い世界では、そんなにも光の差があるんですね。描きたい衝動は、今も変わることはないんですか?
そこは変わらない。この脳のおかげで描ける世界だし、描きたいものもどんどん明確になってるし。それに最近思うのは、強制的に倒れて意識が戻るサイクルを繰り返してきたけど、人が寝て起きることも似てるんじゃないかなと。意識が無くなって再起動する時に現実に戻って来るわけだから、自分の中では毎日デジャヴしてる感覚。毎朝目が覚めると光の世界が焼き付いてるので、その光景をじっくり思い出しながらコーヒー豆を挽いて、「今日はこんな感じだな」と観察を終えたら、コーヒーを飲みながら描いてますよ。
脳の中というか、無意識の中にある意識というか、GOMAさんの場合は現実じゃない世界に題材がある。朝目が覚めてからの時間は、なおさら大切な時間ですね。
常に脳裏に焼き付いてるものに近づけていく作業だからね。観察して思い出しながら、その光景が鮮明に見えてるほど、いい描写ができるのは間違いないかな。
誰もが見ることのできない世界を描写した作品は、その緻密さと色彩から目が離せないですし、吸い込まれるようでもあり、抜け出していくような感覚もあります。東京での個展は大盛況とのことで、関西でもGOMAさんの作品にお目にかかれる日を待ち焦がれておきます!!
フジロックでの復活ライブのことは僕自身あんまり覚えてないけど、みんなの記憶に残ってるなら十分かなって。
事故直後のお話から絵についても伺ってきましたが、困難と言われる中で再開できた音楽活動についても聞かせてください。確か、事故から1年半ほど経った、2011年4月に活動を再開されましたよね?
リハビリ当初は循環呼吸もできず、そもそも吹けなくなっててね。ただ幸いにも仕事柄、映像や写真、インタビューが残ってたからそれを見てると、フジロックの映像があったんですよ。その映像を見て、「もう一度やりたい!」と思えたし、フジロックのステージに立つことを一つの目標として設定したんです。仲間やメンバーも「そこに向けて一緒にやろう!」「遊びでもいいからスタジオに入ってみようよ!」と言ってくれて。でも、振り出しに戻った状態というか、本当にゼロからのスタートだった。
1994年にディジュリドゥに初めて触れた時はすぐに吹けたのに、それすらもできない。積み上げてきたものが一気に無くなった恐さは計り知れないと思いますが、仲間の存在も含めて積み上げてきたものがあったからこそスタートを切れたんですね。
最初は吹けなかったけど、医者の先生からは「脳の記憶は失っても、身体の記憶は残ってるはずだから、まずはリハビリを頑張りましょう」と言われてね。めげずにやり続けると、本当に身体が覚えてた。循環呼吸もできるようになり、「これは復活できる可能性はあるな」と自分でも思えるようになったんです。
身体に染み付いたものは、やっぱり消えないんですね。
そう。身体に残ってる記憶をたぐり寄せながら、ディジュリドゥを吹く毎日だった。今では事故前にやってた曲を演奏するのはほぼ完璧にできるけど、その当時から先生には「新しい曲を演奏するのは難しいハードルになる」と言われてて、そこに関しては今もハードルになってる。僕の場合は脳に記憶させるんじゃなくて、何度も反復して身体に染み込ませないと無理だから、普通の人なら1〜2回でできることを何十回としないといけない。音楽はもちろん、生きていくこと自体もそうだから人よりも時間はかかるけど、それはもう仕方ないしね。
リハビリ当時だけではなく、今もそのハードルを越え続けながらの活動なんですね。それで2011年4月に音楽活動を再開し、同年7月には目標であったフジロックのステージにも復活して戻って来ました。あのステージは伝説的なライブとも言われてますが、GOMAさん自身はどんな心境でした?
実は、あんまり覚えてなくて。でも、その場所にいたお客さん、仲間、家族、スタッフたちは覚えてるから、それでいいかなと思ってる。今でも当時のことを言われたりもするし、「あぁ、やっぱいいライブができたんだな」と。僕自身に確かな記憶はないけど、みんなの記憶に残ってるなら十分かなって。
映像や写真にも残ってるとは思いますが、改めて人の記憶に残るってすごいことですよね。ディジュリドゥを広めることだけじゃなく、事故を経て復活するということは、たくさんの人の希望にもなったと思います。これからの音楽活動も、楽しみにしてます!!
パラリンピックへの楽曲提供は、周りのみんなに新しい自分を引き出してもらった感じ。
東京パラリンピック開会式の光るトラックの登場シーンと、光るトラックの声の部分の楽曲を担当されました。インスタグラムでもその思いをつづられてましたが、改めて参加できた感想を聞かせてもらえれば。
参加できたことを誇りに思うし、やっぱりすごくうれしかったですね。
僕らもあのシーンを見て、ディジュリドゥを吹いてるというよりも話してるなと。会話してるって感じましたし、ディジュリドゥの音と映像のシンクロもすごかった。
そういう風に伝わってうれしい。光るトラックの気持ちをディジュリドゥで表現することをお願いされていて、最初はどう解釈するか迷ってた部分もあったけど、「日本版マッドマックス的な感じかな」と思って吹いたんですよ。
光るトラックの気持ちを表現するのにディジュリドゥを選んだという驚きもありましたが、見事にハマってるように感じました。
ありがとうございます。でもそこは、芸術監督が素晴らしかったから。ディジュリドゥの新たな技も習得できた気がするし、周りのみんなに新しい自分を引き出してもらった感じだった。
それは、また新しい一歩を踏み出した感じですね。
なので、ディジュリドゥで何かを擬人化して表現したい方は、お気軽に(笑)
だそうですので、皆さんもお気軽に(笑)
コロナ禍の今、僕らみたいに芸事で生きてる者、そこに携わってる者にとってポジティブなものを発信するのはとても大切なこと。大打撃はみんな受けてるだろうけど、逆に新しいエネルギーが生まれるタイミングに差し掛かってるとも思う。
GOMAさんがディジュリドゥと出会ってからの半生を伺ってきましたが、これから取り組んでいきたいことについても教えてもらえますか?
すべてを融合させていくことかな。音楽も、絵も、生き方も。絵に関しては、いつか書けなくなるんじゃないかという恐怖が以前はあったけど、結局10年以上描き続けてるし、意識が戻る光の世界という描きたいものも明確にある。その光は僕だけの世界にあるものだと思ってたら、実は事故に遭った人や臨死体験をした人はけっこうな確率で光の話をしてるんですよ。国境も人種も、性別も年齢も関係なしで。それを聞いて、人間はみんな来る場所と戻る場所が同じなんじゃないかと思い始めててね。意識というものも、魂というものも、そう。
とても興味深い話です。ちょっとズレるかもしれませんが、事故で演奏できなくなっても活動再開したいという意識が再生し、結果的には同じ場所に戻って来てますもんね。現世においては人それぞれ場所は違えど、戻る場所があるということは同じかもしれないし。
そうだよね。僕は毎回倒れて意識が無くなっても、こっちの世界に引き戻してもらえてる。そんな光はすごくポジティブなものだからこそ、絵はもちろん、音楽や生き方を通じてメッセージしていきたい。
それも、やっぱりGOMAさんだからできることですよね。
コロナ禍の今、僕らみたいに芸事で生きてる者、そこに携わってる者にとってポジティブなものを発信するのはとても大切なことだから。大打撃はみんな受けてるだろうけど、逆に新しいエネルギーが生まれるタイミングに差し掛かってるとも思うしね。
新しいエネルギー、確かにそんなタイミングかもしれません。閉塞感がある今はその前夜というか、いろんな息吹みたいなものを普段よりも敏感に感じたりもします。新しい何かを待ってる人はたくさんいるはずですし、その人たちの存在や声がまた生み出す力にもなりますしね。
だから、時代や環境のせいで諦めたら終わり。やっぱり、リハビリだってそうだったから。諦めると落ちるだけだし、こんなもんかと思っても同じ。ちょっと上を見て自分をプッシュすると現状維持で、そこにもう少し頑張る気持ちをプラスしてやっと回復していく感じ。気持ちの持ち方で日々はどんどん変わっていくから、そうしたマインドの部分に向けて、僕のすべてを融合させてメッセージしていく。それが、GOMAという存在としてこれからやるべきことだと思ってる。そして、残していくべきことだと。
ディジュリドゥと出会ってから人生が新た方向に動き出し、事故から復活して再起動することでまた新たな歩みがスタートした。GOMAさんのやろうとしていることは、ディジュリドゥや絵を通して自身の生き方を伝えるだけじゃなく、生きることや諦めないことに対して背中を押すことのような気もします。今の時代に新しい光が差す瞬間を、ぜひ見てみたいです。GOMAさんのこれからの活動を、ファンとしても楽しみにしてます。今日は長時間ありがとうございました!!
<プレゼント企画>
GOMAさんのサイン入りてぬぐいをプレゼント!
GOMAさんの作品モチーフである意識が戻る光の世界を描いた、“ひかりてぬぐい水色”にサインを書いてもらいました!『MARZEL』だけのスペシャルなプレゼント企画なので、下記の応募方法をCHECK!伝統工芸品の注染てぬぐいを一点一点手で染めているので、作品とはまた少し違った独特のにじみやゆらぎも楽しめます。通常のてぬぐいよりも大きめサイズ(幅100cm×高さ36cm)だから、頭に巻くこともOKです!
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それでは、どしどしご応募ください!!
GOMA
大阪府出身。ディジュリドゥアーティスト、画家。1998年にアボリジナルの聖地であるアーネムランドで開催されたバルンガ ディジュリドゥコンペティションで準優勝。ノンアボリジナルプレイヤーとして初受賞という歴史的快挙を果たす。イギリスへの渡欧を経て帰国後は国内外のフェスやイベントで活躍し、活動の幅を広げて勢いに乗っていた2009年に交通事故に遭い、外傷性脳損傷による高次脳機能障害と診断されて活動を休止。事故後まもなくして描き始めた点描画が話題となり、全国各地で展覧会を開催。2011年には再起不能と言われた事故から苦難を乗り越え、音楽活動も再開した。2012年には自身を主人公とした映画「フラッシュバックメモリーズ3D」が東京国際映画祭にて観客賞を受賞。現在もディジュリドゥ奏者、画家としてのみならず、講演会など多岐に渡り活動中。