【ぼくらのアメ村エトセトラ vol.1】 濃厚で、衝撃的で、眩しかった時代。編集メンバー&カメラマンと振り返る『カジカジ』×アメ村の26年。
大阪・アメリカ村を中心に、関西のストリートカルチャーを発信していた『カジカジ』。1994年に創刊され、1990年代後半の関西の若者は全員が読んでいたと言っても過言ではない超人気雑誌でした。『カジカジ』は残念ながら2020年に休刊しますが、その26年間の歴史はアメ村の歴史ともリンク。そこで今回は、元編集長 羯磨雅史さんと高松直さん、看板企画「街の眼」を担当したカメラマン 高橋正男さんによる座談会を敢行! ストリートスナップでアメ村を見つめてきた皆さんに、アメ村26年の歴史を振り返ってもらいました。想像をはるかに超えるエピソードが山盛りのアメ村クロニクル、街とファッションが大きく変わった26年の歴史を紐解きます!
1994年頃は、「存在がメジャーじゃないから、声かけても断られる」ファッションスナップ黎明期。
『カジカジ』と言えば、ストリートスナップの「街の眼」が看板企画でしたが、正男さんは「街の眼」を創刊当時から撮っていらっしゃったんですか?
正男:途中からですね。創刊からしばらくは、ニューヨークにいた女性のカメラマンの方が撮ってたんですよ。僕は6号目からかな?
羯磨:正男さん、当時は何歳やったんですか?
正男:28年前やから、32か33歳か。『Boon』とかやってたんで、声がかかって。当時はそういうファッションに関わる仕事、ストリートファッションの仕事をしてるカメラマンが僕しかいなかったから。あとはファッションいうても広告とかそっちの人ばっかりで。ストリートファッション自体がもっとインディなもんていうか、存在としては薄かったし。
最初は正男さんじゃなかったんですね。
正男:紹介するからって連れて行かれたんですよ、『ぴあ』の編集の人に。そこで作品、当時若者のポートレートを撮ってたんでそれを見せたら、来週からすぐ撮影してほしいってなって。でも最初は、前のカメラマンと同じ撮り方をしてくれって言われたんですよ。前の人は盗み撮りっていうか、外国のスナップみたいに、望遠レンズで流し撮りしてそれをモノクロにするっていうのをやってはったんです。そういうのが流行ってたんで。で、それをしてくれって言われたけど望遠レンズ持ってなくて、広角レンズしか持ってなくて。めっちゃ近づかなあかんから、盗み撮りしようにもできないんですよ。
羯磨:そらバレますね。
正男:それで、『Boon』と同じ撮り方させてほしいって言うたんですよ。『Boon』の「カッコマン」ってストリートファッションスナップの元祖なんですけど、それを撮ってたんで。
羯磨:「カッコマン」人気でしたもんね。
正男:『ポパイ』とかはストリートファッションじゃなくてちょっと上等なかっこやったし、『メンズノンノ』とかモード系やったし。ストリートファッションをスナップするって『Boon』だけがやってたんですよ。でも『Boon』のときは広角レンズで下から煽って足長みたいに撮ってたけど、それとは変えようってなって。僕はポートレート写真が好きやったから、ポートレート風に撮りたいなと思ったんですよ。声かけて、町の風景、景色を入れて、人物像みたいにして撮りたいって。そういうのをやってる人が世界にもおらんかったから、世界中にまだ誰もやってないことをやりたいっていう想いもあって。
その頃は、そういう撮り方はなかったんですか?
正男:当時のファッションスナップって、公園とかに集まってもらって、みんな公園をバックに撮るみたいな感じで。『Boon』も帽子とか靴とかアイテムに寄る撮り方で、人物像に焦点を当てるって感じじゃなかったんですよ。でも僕は、そこに来てる、アメリカ村に来てる人として撮りたいと思って。風景を入れながら、空気感みたいなものを出したかったんですよ。
そこに来てる人として撮りたいって、いいですね。
正男:ファッションスナップって当時まだメジャーじゃなかったから、最初は怪しまれてけっこう断られたりしたんです。でもそれが、「街の眼」を始めて半年ぐらいでみんなすごい知ってくれるようになって。1年ぐらいしたら、絶対あかんやろっていうようなめっちゃコワモテのパンクの人とかも、撮らせてくれるようになったんですよ。
高松:「街の眼」見てましたけど、ハードル高い感じありましたよね。
羯磨:そうそう、絶対載られへんなと思ってた。載りたいっていうより、この街に行きたいみたいな憧れ。当時はほんまに雑誌しか情報がないから、それこそ穴が空くほど見てた。
「街の眼」だけでけっこうページ数ありましたよね。
羯磨:20人載ってましたもんね。1人、9人、1人、9人の4ページで20人。
正男:そのときの副編集長が変に潔い人で、「1、9、1、9でバンバンいきましょう、ややこしいデザインせんときましょうよ」って言うんですよ。シャッターもちょっとしか切らんでいいですよって。1人につき3枚ぐらい。
羯磨:たまに目つぶってるときありましたよね。
正男:全部目つぶってたらそのまま載る。あと、3枚撮って2枚失敗してて、生きてるのが1枚しかなくてそれが目をつぶってたから使わなしゃあないっていうのもあった。本人には、全部目つぶってたって言うたけど(笑)
その当時のアメ村ってどんな感じだったんですか?
正男:これ大前提で言わせてもらいますけど、僕アメ村苦手なんですよ。
そうなんですか?
正男:好きで行ってたわけじゃなくて、撮らなあかんから行ってたわけで。撮ること自体は好きで、撮りたい人がいっぱいいるのは良かったけど。でも街はもうちょっと、きれいなとこのほうが好きかな。
ぐっとさかのぼって1980年代は、ズートスーツ、サーファー、サニトラからステューシー。
正男さんがアメ村が苦手だとは(笑)。意外でした。
正男:19とか20歳の頃は遊びに来てましたけど。もう40年以上前。その頃で既に古着屋があったんですよ、『赤富士』っていう東京の古着屋。あと『パームス』っていうクラブ。上がプールバーでビリヤードできて、下が今でいうクラブみたいな。そこに行くとめちゃくちゃおしゃれな人がいるんですよ。古い50年代の車でバーンと乗りつけて、リーゼントでヴィンテージのスーツとかギャバシャツとか着て、大きい帽子かぶって前髪で顔が見えへん人とか。むっちゃかっこいいニューウェーブの人がいっぱいおって、僕は京都に住んでたんですけど、京都にはそんな人おらへんから、「ここどこ?外国?」みたいな。ズートスーツとか流行ってたけど僕ら買われへんから、新世界とか行って、100円ぐらいで売ってるおっさんスーツのバカでかいサイズを買ってサスペンダーして着るんやけど、それをちゃんと仕立てから作って着てる人とか。アメカジじゃなくて、ロンドンっぽかったんですよその頃は。
その時から、もうアメリカ村だったんですか?
正男:アメリカ村はアメリカ村やったと思う。サーファーの人とニューウェーブ、パンクウェーブの人が半々ぐらい。もともとはサーファーの人がメインで、その当時のサーフブランドでラハイナっていうのが、三角公園の角の信号のとこにあって。
羯磨:くじらのマークの?
正男:そうそう、そのうちヤンキーの服になってしまうんやけど、そうなる前。そのラハイナの前にピンクとか黄色に塗ったサニトラが来て、しかもホットロッドになってて、横からマフラー出てたりして。サーファーの人はみんな怖かったですよ。マッチョで、金髪のマッシュルームカットで、黄色のスウェットとか着てて。怖かったけど、そういう人が見られるっていう面白さもあった。京都にはサーファーもパンクニューウェーブもおらんかったから。
そんな時代があったんですね。
正男:でも京都の写真館に就職してからは、ほぼ来なくなって。それが、88年頃になって、ステューシーがあるということを知ってしまったんです。でもどこにも売ってないんですよ、情報だけで。くるくるした文字で書かれたステューシーというアメリカのブランドがあって、それがめっちゃイケてるけど売ってないって。でも、アメリカ村にはあったんですよ。それでまた、久しぶりにアメ村に買い物に来るんです。
羯磨:当時は並行輸入が行われてたんですよね?
正男:ロンドンものを売ってる店が並行輸入で仕入れてた。もともとサーフブランドなんやけど、ロンドンのクラブで流行りだしてたんで。
ステューシーを買うために、またアメ村に。
正男:そうそう。その後、京都の仕事をやめて大阪でスタジオを始めたんです。その相方が『ニューヘア』って美容の雑誌でストリートスナップを撮ることになって、僕もその仕事を分けてもらって。90年とか91年とかに三角公園で撮影してました。フェミ男とか流行ってた時代で、ダサい子もいっぱいいたけどマジでかっこいい子もいて。アメカジの人もいたけど、古着とかをロンドン風に着るっていう感じやったんかな。音楽とあんまり関係ないけど、かといってモード系でもないし、古着を使ったミクスチャーなスタイルの人たちもちらほらいて、京都とか神戸から来てたり。聞いたら、アメリカ村行くんやったら新しいかっこをしていくって。発表しにいくみたいな感じ。
高橋 正男
プロスチールカメラマン/大阪府堺市出身。
90年代にファッション誌『カジカジ』連載のストリートポートレート「街の眼」で人気を博す。現在も雑誌や広告、カタログなど幅広い媒体で活動。Instagramでは90年代の「街の眼」を公開中。
羯磨 雅史
編集者・PR/滋賀県出身。
『カジカジ』編集長を経て、現在は中津のセレクトショップ『IMA:ZINE』に所属。QUALITY LIFE GUIDE MAGAZINE『CC:COLORS』をWEBで展開。
高松 直
編集者/大阪府枚方市出身。
『カジカジ』編集長を経て、現在はフリーランス。元『カジカジ』編集部メンバーによる『STAND MAG』の一員として、イベントや企画なども手掛ける。