バンドマンで、教育者で、社会活動家で……いくつもの顔を持つ吉田田タカシさんの根底にある「憤り」とは。
結成25周年を迎えるスカバンドDOBERMANのボーカルとして会場を沸かせるバンドマンであり、アートスクール<アトリエe.f.t.>を主宰する教育者でもある吉田田タカシさん。最近では、こども食堂の在り方を進化させた<まほうのだがしや チロル堂>、登校拒否問題について考える<トーキョーコーヒー>など、さまざな社会活動も行うソーシャルデザイナーとしても注目を集めています。しかも吉田田さんの活動はこれだけにとどまらず、もはやどんな肩書で紹介すればよいのか迷うほど。何足ものわらじを履き、いくつもの顔を持つ吉田田さんの本質とは、いったいどこにあるのか。MARZEL編集部からは、「フェスが最高に気持ちいいDOBERMANのボーカルで、ライブでよくベロベロに酔っぱらってた吉田田さん」しか知らなかったシマタニと、「最近地元(生駒市)で子どもたちのためにさまざまな活動を行っているソーシャルデザイナーの吉田田さん」しか知らなかったセメ子が、それぞれの側面からインタビューさせていただきました。1・2は学生時代や音楽活動について、3・4は主に社会活動についてのお話ですが、全部を読むとすべてがつながるので、ぜひ全編通して読むのがおすすめです!
芸大にいくつもりのないやつを僕がバンドやるために誘ってるから、合格させるためにめっちゃデッサンを教えたんです。それが、<アトリエe.f.t.>の原点。
DOBERMANの活動と<アトリエe.f.t.>を大阪芸術大学時代にスタートされていますが、それぞれ始めたきっかけを教えていただけますか。
バンドは予備校時代、いわゆる画塾みたいなところで友達になったメンバーで、今も一緒にやってる賢ちゃんとか小山とかその辺がSKAが好きで。当時SKAはまだあんまり知られてなくて、2TONE SKAとかNEOSKAとかがマニアックに好きだったんですけど、そういうのをやりたいなという話になって。大学で別のバンドを組むんですけど、全身全霊すぎて一曲作るのに数ヶ月かかったりしてたんで、解散してもうちょっと気楽なやつやろう、モテるやつやろうやって始まったのがDOBERMAN。
大阪芸大時代は、別のバンドも組んでおられたんですね。
賢ちゃんが大阪芸大をやめて、音楽で食っていきたいって東京行っちゃったんですよ。それがきっかけで解散したんですけど。で、新たにDOBERMANを組んでスタジオに入ってみたものの、僕らど素人すぎて。実は賢ちゃんはピアノだけじゃなくてギターも弾けるし、譜面も読めるし書けるし、音楽知識があったんですよね。だから、やっぱり賢ちゃんが必要だってなって。その時に思い出したのが、ビリヤードなんですよ。
なぜビリヤードなんですか?
その頃みんなめっちゃビリヤードにハマってて、なんかヒリヒリするもん賭けたいな、人生賭けよかってなって。人生賭けてナインボール一発やったら、僕が勝って、賢ちゃんが負けた。それを思い出して、「賢ちゃん、あの時のナインボール覚えてる?」って電話したら、「あっ……」って(笑)。「覚えてる?帰って来て」って言ったら賢ちゃん荷物全部まとめて翌週には大阪に帰って来てくれて、そこからDOBERMANが始まったと。
今のDOBERMANがあるのが、人生を賭けたビリヤードのおかげだったとは!
いざ始まったら、今度はトロンボーンが欲しいなって。僕の高校の後輩にすえちゃんっていうセンスいいやつがいたんですよ。楽器とかは触ったことないけど、中学の頃からTHE SPECIALSとか聞いてる渋いやつで。で、京都にいたすえちゃんとこまでメンバーみんなで車で行って、朝5時に五重塔のとこに呼び出して、「ちょっとこれ吹いてみて」ってマウスピース渡して。
朝5時に五重塔に呼び出されてマウスピース吹かされるって……。
そんですえちゃんが吹いたらピーって音鳴ったんですよ。「鳴るわー」言うてそのまま引きずり込んで(笑)。受験も、もう大阪芸大しかないから!って。
バンドメンバーにするために、大阪芸大を受験させると。
当時いたサックスもそんな感じで、僕の地元の親友を大阪芸大に誘って。でも芸大にいくつもりのないやつを僕がバンドやるために誘ってるから、合格させないとあかんじゃないですか。だからめっちゃデッサンを教えたんです。それが、<アトリエe.f.t.>の原点。建築科を受けるために2日間ぐらいぐわーっと教えたら、そいつ受かったんです。
2日で受からせるってすごい、やり手の先生ですね!
それがめっちゃ嬉しくて。その体験があったから、その後どんなバイトしてもつまらなかったんですよ。なんとかしてバイトやめたいと思った時に、デッサンだったら教えられるなと。メンバーに教えたときの経験もあったし、なんとなくデッサンは自信があって、それくらいしか自分で仕事にできるもんないなと思って始めたんです。
吉田田さんご自身は、どんな理由で芸大をめざされたんですか?
僕、実はサッカー部やったんですよ。そんなに上手なわけでもなかったけど、Jリーグ元年で盛り上がってたこともあって、やってたらけっこうモテたんです。でも肩と腰を痛めて、ドクターストップがかかって。サッカーを失った今、どうやったらモテるかを考えた時に、これはアートや音楽しかないなと。
モテるために(笑)!もともとアートや音楽もお好きだったんですか?
昔からデザインもアートも、音楽も写真も全部好きだったので、サッカーできなくなったからこっちを本気でやろうと。そこからフルスイングでやり出して。高校の文化祭でも油絵と写真の個展をやって、バンドのライブもやって。当時のパンフレットみたら、僕ばっかり出てくる(笑)。校舎の壁にバスケットコートよりでかい布を垂らして、そこに仲間と10人ぐらいで絵も描いたんですよ。先生には「鳥たちが歌い、みんなが踊っている、西脇高校文化祭!みたいなのを描きます」って言ったんですけど、実際に描いたのはSM嬢がムチ振り上げて、そこから血が滴ってるみたいな絵。それ見て先生ひっくり返って。でも「うん、まあ、よう描けてるから……これがアートか」って貼り出してくれたんです。
理解のあるいい先生です(笑)
その絵を描いた時のチームがe.f.t.の始まりで。アンファンテリブル、恐るべき子どもたちという意味なんですけど。
まさに、吉田田さん自身がアンファンテリブルだったんですね。アートや音楽を好きになったのは、どんなきっかけだったんですか?
僕はけっこうマイノリティな人種で、生きづらさとまではいかないけど、なんか変なやつだったんですよね。兵庫県の多可郡っていう田舎出身なんですけど、30~40年前とかはけっこう保守的で。男の子が赤い服着てたら指さされるみたいな。そんなところでめちゃくちゃ変な格好してたし、言動とか好きなものとかもおかしかったから、あいつちょっと変わってるなって。
勉強もやってはいたけど、なんでやるんかもわからんし、つまらんなと思ってて。校則も厳しくて、僕らの上がヤンキー全盛期だから、先生はまだ木刀とか竹刀持ってるような時代。なんかそういう空気が苦しかったんですよね、大人は嫌やし、うっとうしいなって。そういう思いがあって、アートとかロックとかそっちの世界は自由な匂いがして、居心地良さそうやなと思って、だんだん傾いていった感じですね。
その当時から、思想的にはだいぶパンクス寄りのマインドだったんですか?
吉田田タカシのダダっていうのもダダイズムからきてて。ダダイズムってアートの運動なんですけど、まあ要はパンクなんですよね。パンクとかアナキズムとかが僕の中にずっと影響していて、そういう反骨精神はエネルギーとしてずっとあるなと思ってますね。
吉田田タカシ
1977年生まれ、兵庫県多可郡出身。教育者・ミュージシャン・ファシリテーター・デザイナー・芸術家など多彩な分野で活躍。大阪芸術大学在学中の1998年、アートスクール<アトリエe.f.t.>を設立。受験や技術ではなく、生きる力や想像する力を育む教育を目指す。2017年奈良県生駒市への転居を機に、生駒市にも<アトリエe.f.t.>を開業。2021年にこども食堂の仕組みをリデザインした<まほうのだがしや チロル堂>でグッドデザイン賞を受賞。22年には不登校の問題の本質を考える<トーキョーコーヒー>を立ち上げ、全国へ活動の輪を広げている。アトリエと同じく1998年に結成したスカバンド DOBERMANの活動ではボーカル、歌詞を担当し、現在までにアルバム7枚をリリース。フジロック、釜山ロックフェス、韓国ツアー、ヨーロッパツアーなど世界で高い評価を受ける。
シマタニケイ