25歳のさすらい系フリーシェフ・浦口司さん。日本食を世界に広めるために突っ走ってきた型破りな道と、その次なるステージとは。

料理の世界と言えば、調理系の専門学校を卒業して入店するか、弟子入りして修行するかが一般的なストーリーだと思うんですが、今回紹介する浦口司さんはちょっと違うんです。「日本食を世界に広める!」という自分で掲げたビジョンに向かって、ひたすら突っ走り続けてる人。何をするにも年齢なんて関係ないけど、料理の世界では時としてネックになる若さを逆手に取り、常に大胆不敵に、たまーに図々しくありつつも、ブレることなくアクションを起こしてるんです。現在はフリーシェフとして全国各地を飛び回りながら、いろんな場所で料理を振る舞っています。そんな彼が辿ってきた型破りな道と、その次なるステージの話を聞いてきました。弱冠25歳、ハッキリ言って可能性の塊です。

高校卒業までに料理人の肩書きが欲しかったから、在学中にイタリアンレストランで住み込みで働き始めた。

25歳でフリーシェフって、かなりレアな働き方!そもそも料理の道を志したキッカケって何だったんですか?

小さい時から料理をするのが好きだったのもありますけど、志したのは高校時代。野球をしていて寮生活だったんですが、寮母さんがいなくて毎日コンビニやファミレスのごはんばかり食べてたんです。当然、栄養は偏るし、食生活もよくないからヤバいなと。それで、料理が得意だった自分がみんなの分を作ることになりました。

育ち盛りの高校球児のごはんを、高校球児が作るって、おもしろいですね。反応はどうだったんですか?

まぁ、とにかくめちゃくちゃ食べてくれましたね。大好きな仲間が自分の作った料理をこんなにも食べて、ここまで喜んでくれるのかと。反応がダイレクトに返ってくるから、「次はもっとうまいのを作ろ!」と思えて、どんどん料理にのめり込んでいったんです。「自分の作った料理でみんなを喜ばしたい!」っていうその時の気持ちが料理人としてのルーツとなって、今へと続いてる感じですね。

みんなすごくガッツキそうだし、そりゃうれしいですよね。食生活が充実して、野球の方にも成果は出ましたか?

食生活のおかげかは分からないですけど、3年連続で甲子園には出場しました!僕は1年生の秋からメンバー入りして、2年生の時は甲子園も経験。3年生の時はケガをしてしまって…。最後の夏は悔しい思いをしましたね。

3年連続って、スゴイ!高校球児と高校生料理人の二足の草鞋を履いてたんですね。料理はもちろんですが、野球にもどっぷり浸かってる生活をしてたわけですが、卒業後の進路は?

高校3年の夏で部活を引退したので、野球とはそこでキッパリとお別れしました。

そうなんですね。野球でさらに上を目指すよりも、料理の道に進もうとしたってことですか?

はい。野球は自分としてもやり切ったし、料理を作って喜んでもらうことの方がデカかったので。

なるほど。では、高校を卒業して調理系の専門学校へ?

専門学校には行ってないんです。僕自身、高校を卒業するまでに料理人の肩書きが欲しかったから、在学中にイタリアンレストランで住み込みで働き始めました。

在学中に?しかも住み込みで?学校は大丈夫だったんですか?

学校は単位などもしっかり取ってたので、別に行かなくても大丈夫な状況だったんです。

そんな状況だったとしても、行かないのはダメですですよね(笑)

まぁ、普通はダメだと思います(笑)。でも、3年間休むことなく勉強も部活も頑張ってたので、先生たちに「在学中に料理人になるために!」とお願いしたら許してくれました。やると決めたら絶対にやる頑固な性格なので、先生たちも折れてくれたのかなと…。

それ、異例すぎますよね(笑)。でも、夢を後押ししてくれるイイ先生たちがいてよかったですね。イタリアンレストランではどんな毎日を?

3ヶ月間住み込みで、朝から夜までずっと料理と向き合ってましたね。高校の先輩も働いてるレストランだったので、いろいろ教えてもらいながら料理の世界にちょっと足を踏み入れた感覚。一歩というか、料理人として半歩を踏み出したような時間でした。

肥後橋にある完全紹介制の『すき焼き 九』は、浦口さんがメニューをプロデュースしたお店。

たとえ半歩だったとしても、料理人という肩書きは名乗れる環境にはいたわけですもんね。3ヶ月間の住み込みを経て、次はどんなステップを?

自分が働きたいと思ってたのは、ホテル・レストラン・ウェディングなどの事業を行なっているプラン ドゥ シーが運営する、『ザ・ガーデンオリエンタル・大阪』。住み込みで働いてたので就活する時間もなかったし、そもそも高卒の採用枠もなかったんです。しかも、料理人志望なのに調理師免許も持ってませんし…。でも、だからと言って何もしないまま諦めたくなかったので、卒業するギリギリの3月に直談判しに行きました。「どうしてもココで働きたい!バイトでも何でもいいから働かせてください!!」って。

得意の直談判ですね(笑)。めちゃくちゃ人気の企業ですし、壁は高かったんじゃないですか?

まさかの新卒採用枠で入れてもらえました(笑)。

マジですか…。ハンパない熱量が伝わったんでしょうね。でも、それにしても異例中の異例やと思いますが。

後から聞いた話ですが、全社メールで「スゴイ熱いヤツが来た!」って回ってたみたいです(笑)

そりゃそうでしょうね。そもそも『ザ・ガーデンオリエンタル・大阪』で働きたかった理由は何だったんですか?

料理はもちろんですが、レストランとウェディングという事業形態、さらに異業種とコラボするパーティーなども開催していて、個人店ではできないことをしてる場所だったからです。料理の勉強だけなら個人店でもできますが、ココならもっといろんなことを吸収できるなと思って。だから、料理人としてスタートを切るなら大きい企業がいいなと。それが理由ですね。

浦口さんにとっては料理以外の部分も重要だったと。実際働いてみてどうでしたか?

約3年間働かせてもらいましたが、全ての経験が自分の身になるものだったと思います。『ザ・ガーデンオリエンタル・大阪』での日々もそうですし、19歳の時には北海道のニセコに期間限定でオープンするレストランのプロジェクトにも参加させてもらいました。このプロジェクトは現在も継続されていて、全国から集められた20代前半の若手メンバー10人だけでレストランを運営するんです。僕はプロジェクトの初年度にそのメンバーに選ばれたんですが、スタート時点は本当にレストランのハコがあるだけの状態。メニューはもちろん、インテリアなども全てゼロの状態なので、店作りの勉強にもなりましたね。来ていただくお客様の層を考え、どんな料理が喜ばれるか、どんな空間が必要か、席数はどうするかなど、みんなで考える時間は大変でしたけどとにかく楽しかったことを覚えてます。

若手だけで料理を作り、運営まで全てするんですね。とても貴重な経験だろうし、チャレンジする絶好の機会でもある。大きな企業だからこそ、できることですね。

系列の『オリエンタルホテル神戸』でも勤務し、鉄板焼きレストランも経験しました。1組のお客様に対して1人の料理人が調理からサービスまで全てを担当するスタイルだったので、緊張感もありましたが刺激的でおもしろかったですね。自分の知識不足で悔しい思いをしたことが何度もあったから、勉強しまくって日々自分をアップデートすることを大切にしてました。

対面だとなおさら隠せないですもんね。浦口さんの手さばきや動きが丸見えなわけだし。

そうですね。自分は調理の専門学校にも行ってないので基礎技術が他の人より劣ってるのは自覚してました。巻き返すためにも、営業後やプライベートの時間に勉強するしかなかったんです。どんな些細なことでも分からないことがあれば、めちゃくちゃ聞いてましたね。それができるのも若造の特権だし、失うものは何もなかったんで。

自分の成長に貪欲なのは素晴らしいことだと思いますよ。専門学校でしっかり学ぶのもいいけど、現場だからこそ得られるものもありますしね。

そもそも専門学校に行くという選択肢は、僕の中ではなかったんです。お金を払って勉強するよりも、お金をもらって勉強する方が絶対にイイ!なぜなら、そこには責任感が生まれますから!

25歳までには絶対に海外を拠点にして働く!自分の人生の年次表には、そう書いてあるんです。
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Profile

浦口 司

1996年生まれ、徳島県出身。元甲子園球児で、強肩を買われて外野手からピッチャーとなって活躍する。部活引退後から料理の道を志し、現在はフリーシェフとして日本各地で料理を振る舞う。2022年3月頃には香港に渡り、二つ星レストラン『Arbor』のスーシェフとして活動する予定。

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