Interview & Writing
羯磨 雅史
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羯磨 雅史

2017年9月に彗星の如く現れた中津のショップ『IMA:ZINE』のディレクターであり、世界から注目を集めるグラフィックアーティスト、verdy氏が描く<Zepanese Club>、 THE UNIONの長、牧田耕平氏との<tion>、大阪名物・THE モンゴリアンチョップスとの共作<BOKU MO TANOSII>など様々なブランドのディレクションも手がける大阪ファッションの重要人物、谷 篤人さん。

SNSなどを通じて、ファッション好きならこの顔、一度は見たことあるんじゃないですか?

そんな谷さんって一体何者やねん?ということで、学生時代から大手セレクトショップ時代、そして4年目を迎えた「IMA:ZINE」のこれからについて、谷さんの視点に迫ります。

スタイルのルーツはサッカー選手のカンポス? ヤンキー?

そもそもですが、いつからファッションに興味を持ち始めたんですか?

おかんがハイカラやったんで小学校の頃からよーさん服を買ってもらってましたね(笑)。意識しだしたのは中学1年ですかね。中学校って基本制服じゃないですか。でも普通に着るのはイヤで、テーパードした変形ズボンを履いたりだとか、みんなと違う格好をしたくて。堺東にある刺繍専門店の竜王とか行ってました。
決して、ヤンキーでは無かったんですよ(笑)。ただ、影響はされましたね。自分は暴力はしないし、暴走族にも入ってない。でも、何かしらひとと違うことが好きでしたね。決められた規制やルールを破りたかったというか。

悪いことはしないけど、ひとと違う注目を集めたかったと。

周りはヤンキーの子が多かったですね(笑)。
思春期なんで中学くらいからモテを意識するじゃないですか。ずっと空手をやっていたんですけど、モテる要素といえば当時はJリーグブームのサッカーで、経験もないのにサッカー部に入って。

モテるのがきっかけでカッコよさそうなものを始めるのは思春期あるあるですね(笑)

入部すると監督に「お前ポジションどこや?」って聞かれてみんなポジションを言っていくんですけど、僕だけサッカーの経験無いから適当に「ストライカーです」って言うたりね。しかも蹴り方はトーキック。それを見かねた監督に「お前キーパーやれ」って言われて。
でもそれが、自分のなかでは「背低いのにキーパーってアリやな」って思えたんですよね。当時、前から3番目くらの背の低さ。キーパーって背が高くてゴツいヤツのポジションっていう常識からは外れていると言うか。ある意味目立つし。一人だけユニフォームもちゃうし。派手やし。

天邪鬼というかなんというか。そんな谷さんが影響を受けた人っています?

ワールドカップ USA 94。テレビで中継している試合とか見るじゃないですか。で、当時のメキシコ代表のゴールキーパー、ホルヘ・カンポス(※)に衝撃を受けて。僕と同じく背が低いのにキーパーという難しいポジションで、ときにはフォワードとして試合に出たり。後は、その前身というべき、コロンビア代表のイギータ。南米のゴールキーパーのパフォーマンスに度肝ぬかれました。勝負の世界やのに、エンターテイメントで。
ユニフォームはメキシコの情熱をイメージした、もの凄く派手な色で、キーパーユニフォームなのに半袖。さらに、コットン。しかも、自分自身でデザインしてるっていう。ネットで当時のユニフォームを探したこともありました笑。

※日本代表がドーハの悲劇で出場を逃した1994年アメリカワールドカップで一躍有名となった選手

まさかカンポスが谷さんのルーツの一つとは。確かにカンポスの出で立ちは格好良かったですね。当時のサッカー好きには強烈な印象でした。

ほんまにめちゃくちゃカッコよくて。失点するときも、入れられる美学というか。セービングのフォームも美しかった。ファッションというか、ユニフォームも含め、スタイルを確立しているのって凄いなと。なんかパフォーマーなんですよね。考え方がまさに「ストリート」。

それが自分のファッションやスタイルに対する考え方のルーツの一つですね。

それから高校に進むと。

高校1年の途中から1年間カナダに留学したんですよ。僕が行った地区はカルガリーオリンピックがあった場所でいろんな人種の方がいて、色々文化も学べた。それから、より海外に興味をもって。留学後は、アメリカ西海岸中心にホームステイしに行ってました。そこで得た経験も非常に大きかったです。みんなでスケートしたりライブいったり。NOFXのライブは楽しかったなー。

意外な仕事から、ファッションの道に。そして東京へ

貴重な学生時代のお話ありがとうございます。社会人になってからは?

これ、記事に出来るんかな(笑)。元々親父がフォトグラファーであり、カメラ屋をやっていたのもあって、本当はカメラの仕事をやりたかったんですよ。でも親父に「お前センスないから、趣味で止めとけ」って言われて。で、なんやかんや大学に行ったんですが高校から大学までの期間ずっと遊びすぎて。結局大学も退学させられましたね(笑)。

もう学校も無いし、自分が何を仕事にしようか考えたときに、男なんで、素直に言うとオンナが好き。裏社会(サブカル)が好き。カメラも好き。ファッションや遊びも好き。
25歳くらいまではやりたいことを詰めまくって経験しようって。
サブカルのメディアの仕事をしていましたね。これはあまり公にはしていなかったんですが(笑)サブカルを学ぶために営業や企画なんかもしてました。ほんまいろんな人に会いましたね。そこで企画を考えたり作る楽しさとか、人のバックボーンに触れることができたので、当時経験したことは今の仕事に活かされていると思いますね。

意外な仕事をしてたんですね(笑)。そこからアパレルにどう繋がるのか…。

元々ファッションが好きっていうのももちろんあったし、ビームスも好きやったし。でも一番のきっかけはビームスの設楽社長、土井地さんのインタビューを読んだことですね。

それが何歳頃ですか?

2005年かな?25歳くらいのときに『ビームス ストリート 心斎橋』(現ビームス ストリート 梅田)のオープニングスタッフとして入社したんですよ。で、南船場にあった『BE』という、とんでもないビームスの要素が詰まったレーベルの担当を経験させてもらっていました。『BE』は、ブルーナボイン、サイ、チェンジリング、エィスやマスターマインド、傳といったドメスティックブランドの濃いものとアークテリクス、マムート等、アウトドア物がミックスされていて。

昔の雑誌のスナップで見た谷さんもそうでしたけど、どこかしらにアウトドアの要素をスタイリングに取り入れていたイメージです。

大学時代に、レイブパーティーや京都大学のテクノ部に遊びに行ってたんですよ。で、途中雨が降ってきて。40後半くらいのサラリーマンが、スーツの上にモンベルやったかな?シェルを羽織って、ビジネスシューズからマウンテンブーツに履き替えて。そのスタイルでめちゃめちゃ狂うように踊ってて。スーツにアウトドア物を合わせるっていう概念が自分には無かったんですが、そのミックス感はその状況であれば自然。その人の<スタイル>として、めちゃくちゃ格好よかった。いまでこそ珍しくないですけど、当時は自分のスタイルにものすごく影響を与えてくれましたね。

音楽もそうですよね。異ジャンルをミックスしたカルチャーがどんどん浸透していって、っていうのは。

90年代中期くらいは海外にいたんですが、bad brainsやRage Against the Machineなどミクスチャーはいっぱい聞いてましたね。Zackが着ていたStussyのシャツ!!
ルーツレゲエは元々好きやったんで大学の時から地元・堺にある濃いっ濃いのレゲエバー、LizuBaunにもよく行ったし、帰国してからは、アメ村のカロカロ行ってメロコア聞いたり、ドンフレックスで音コンパやったり。友達がバンドしてたんで、グロスに行ったり(笑)。あと、今でこそ仕事やいろんな話をさせてもらってますけど、まこっさん(After Base)はいかつすぎたな。。。(笑)
2000年代初頭はinfected mashroomとか好きやったんで自分の中でのハイテクスニーカーブームで。

ミクスチャーをはじめとした音楽が谷さんのスタイルの根底にあると。
ちなみにビームスではどれくらい勤めていたんですか?

約14年ですね。9年目からはバイヤーとして東京に転勤になりました。当時、僕は関西プレスという肩書きだったんですが、PRの人間がバイヤーになるっていうのはビームスでは珍しかったそうで。最初の3年はいわゆるトータルブランドと言われる展示会ベースのメンズカジュアルのバイヤーをしていましたが、そこから異動になり海外でも2年間バイイングやポップアップの企画をしていましたね。自分が本当にやりたい企画をできたし、それこそ憧れだったショーン・ステューシーとも別注をして一緒に仕事をすることができましたし。

【後編に続く】

Profile

谷 篤人

堺市出身。ビームスにてバイヤーを務めたのち、2017年に帰阪し『IMA:ZINE』の立ち上げに加わる。ショップのディレクションのみならず、国内外のアーティストと深いパイプを持ち、唯一無二のプロダクト生み出す関西ファッションのキーマン。4児の父。

<ショップデータ>
IMA:ZINE
大阪市北区中津3-30-4
TEL /06-7506-9378
営業時間 /12:00-20:00、日12:00-18:00
http://imazine.osaka

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