日常と表現の間でもがきながら、それでも表現することをやめない主婦美術家・犬飼沙絵さんの葛藤。
世界でおそらくただ一人、「主婦美術家」として活動する犬飼沙絵さん。その作品は、“夕飯を作る”という家事を家の外に出し、見知らぬ他者とコラボレーションするアートパフォーマンス『よそのうちのこと屋台』など、生活と表現の曖昧な境界線上で展開されています。オランダでアートを学んでいた犬飼さんは妊娠をきっかけに帰国し、出産後は「否応なしに」主婦生活に飲み込まれていったと言います。オランダでの大学院進学も考えていた最中、全く予期しなかった道に進んだ犬飼さんは今、「飲み込まれてしまったものを、飲み込み返している」ところ。家事や子育てといった圧倒的にリアルな日常の中で、いかにアートと向き合うか。結婚・出産から14年、3児の母となった犬飼さんに主婦美術家としてのこれまでと、これからについて、お話を伺いました。最後まで読むと「主婦美術家」という肩書の持つ意味が、ずしんと響きます。
出産まではアーティストとして順調に作品を作れていたのに、子供が生まれた瞬間に、出刃包丁でバチンって切ったぐらい道が絶たれてしまった。
まず、なぜ犬飼さんが「主婦美術家」になるに至ったかをお聞きしたいんですが、オランダの大学を卒業した直後に、妊娠がわかって帰国されたんですよね?
そうです。ちょうどキャリアが始まる前のタイミング。卒業展の作品で賞をもらって、展覧会の話も来てたんですけど、日本に帰ることになって立ち消えになってしまって。でも当時はとにかく帰国して、子供を産まねばっていう感じ。そして産んだら、子育てにどっぷり飲み込まれてしまって、気づいたら抜け出せない状態。ああどうしようと思っているうちに、13~4年が過ぎました。今は、生活とか育児とかっていう日常の中から、いかに新しいジャンルのアートを作り出せるかみたいなところをめざして、ジェンダーやフェミニズムについて学び始めたところです。
「主婦美術家」と名乗るようになったのは、どんなきっかけですか?
美術家をやってたつもりが、子供を産んだらいつの間にか主婦になってて。役所で書類を書くときに、自分の肩書に「主婦」って書きかけて、すごくモヤっとしたんです。やってることは主婦だけど、この状態でどうすれば作品を作れるのかを焦りながら考えてたから。それで、主婦の後ろに「美術家」と書いて、それを写真に撮りました。名乗るという行為を作品にしようと思って。
それがいわば、主婦美術家としての最初の作品に。
それしかできない状態だったから。でも名乗ったからといって何もなかったんですけど、それが最近くるんとひっくり返って。というのも、去年の始めに「主婦美術家」をやめて「美術家」に戻そうって決めたんです。そしたら、東京の『Art Center Ongoing』っていうギャラリーで展示をしていたアーティストグループ『hanage』の戸田祥子さんから、イベントのトークゲストに呼ばれたんですよ。その理由が、私が「主婦美術家」だったから。やっと社会の需要が出てきたのかなと思って。それなら、私がこうしたいからというより、社会が私をそう見なしたいなら、それに流されてみようかなと。
社会からの需要があるなら、それに流されてみようと。
でも、そのトークショーで女性のアーティストの人たちと話しながら、何かが違うと思ったんですね。何か状況が違うなと感じたときに、私が「主婦美術家」と名乗っていることの意味の深さというか、こんがらがってる感があるなと思って。この感じをうまく読み解けば、自分の状況をもっと理解できるかもしれないと思ったんですね。それで、ジェンダーとかフェミニズムについて学び始めたら、自分がつけた肩書がすごく皮肉な感じってことに気付いて。
主婦美術家という名称が表す皮肉というのは?
私が教わっているのは奈良女子大学の山崎明子教授なんですけど、その方は簡単に言うと、手芸や手仕事がなぜアートとみなされないのかをテーマにしているんですね。例えば、油絵を描いていて手芸もやっていた人が亡くなると、遺族は油絵は残してもレース編は捨てちゃうとか。その辺りのアートの価値の有無は何だろうっていうのを研究している先生で。そこで学ぶうちに、主婦と現代美術が一緒にあるっていう、水と油ぐらいのインパクトのある名前なのかもしれないって気が付いて。だから、最初につけたときと、かなり自分の感覚は変わって名乗ってると思います。
社会の変化だったり、ご自身の変化だったりがあって、名前の意味も変わってきたんですね。
この14年くらい、なんでこんなに作品が作れなくなったんだろうと考えてたんです。それは私が日本でのキャリアやコネクションがないとかいろいろな要素があると思うんですけど、根底にあるのは主婦や母親という立場だけで、アートの世界では日の目を見づらいのかなっていうこと。同世代のアーティストが子供を産み始めて、そこに気が付いて、私を見つけたのかなと思うんです。私はただ名乗ってただけだけど、困り始めたアーティストたちが「ああこういう人がいるじゃん」って気付いたんだと思う。
まわりの人たちも子供が生まれて「あれ?」って思うことが増えてきたのかもしれないですね。犬飼さんの場合、それほどまでに子供が生まれた瞬間に、活動の道が絶たれてしまった感じだったんですか?
もう出刃包丁でバチン!って切ったぐらい(笑)。妊娠中は、期間限定妊婦アーティストとして活動してたんです。静岡県の浜松市でガイドフォーマンスの作品を作ったり、結婚式のかわりに「結婚劇場」というイベントを開催したり。でもそれが、3月に子供がポンって生まれた瞬間に、もう本当に別世界。別の惑星に来ちゃったみたいな。
作品が作れなくなったのは、物理的な理由ですか?それとも心理的なものですか?
両方ですね。まず子育てをサポートしてくれる人がまわりに誰もいなかった。一年間ほぼ24時間営業。東日本大震災があった年で、その影響もあったんです。浄水所が放射能で汚染され、自治体からペットボトルの水が配られたり、粉ミルクやオムツは1人1個までって決められてたりで。
そんな厳しい状況で始まった子育てだったんですね。当時、旦那さんは?
学生でした、卒論を控えためちゃくちゃ忙しい大学院生。オランダで知り合ったんですけど、そのときは筑波大の学生寮の家族寮にいて。私は暇があったら原発のことを調べたり本を読んだりしてました。当時アーティストが現地に行ったり、何かできることはないかってなってたんだけど、私はそれより自分の子供を守らなきゃいけなくて。粉ミルクとか離乳食の食材にも気を付けて、ひとつも間違えないように必死でやってるうちに、生きることが困難になってきちゃったんですね。寮の柱梁を見て、どこにロープ掛けれるかなって精神状態になるぐらい、いわゆる産後鬱に。
知らない土地でワンオペで、しかも震災後の不安な中での初めての子育てというのは、すごく過酷だったと思います。
そんな状況で、夫が卒業して大阪に就職して引っ越すんだけど、大阪にも全然知り合いがいないんですよ。
ますます大変ですよね。
長男がすごく敏感な子で、1日2時間くらいひたすら泣いてたんです。触れば触るほど泣いて、何してもダメ。そんな感じだから家を出るのも怖くて、産後鬱もどんどん悪化していって。夫は忙しくて休みもないから、夜泣きも病気も全部1人で見なきゃいけなくて、ある日わーってなって、枕カバーをビリビリに破いちゃったんです。自分でも「これは何!?」って(笑)。そしたら、たまたまスーパーの帰りに声をかけてくれたお母さんがいて、その人に話したら、心療内科を紹介してくれたんですよ。
そんな偶然が!
その人が通ってる精神科だったんですけど、30分の診察中、ここ2年ぐらいの話を泣きながらひたすらしゃべって。先生に「寝たきりでもおかしくない鬱になってるよ」って言われて、お薬をどっさりもらったんです。
やっぱり鬱になってたんですね。お薬をもらってどうでした?
3日間ぐらい飲んだけど、だんだんそのお医者さんに腹が立ってきて。なぜあの人はたった30分でそんなことを診断できるんだ!って。今思えば、子育ての大変さは人それぞれ違うし、当事者しかわかり得ないものなのに、それがわかってもらえてないのにわかった感じになってるのが嫌だったんだと思います。それで、全部捨てちゃったんですよ、薬を。
飲むのをやめちゃって、大丈夫だったんですか?
その頃から徐々に夫も仕事に慣れて働く時間が少し短くなってきたのと、友達も1人できて、その人が支えてくれたりっていう状況になりました。
犬飼 沙絵
主婦現代美術家。1985年生まれ。愛知県出身、小学4年生から高校卒業までを東京都で過ごす。2005年からサラエヴォ国際文化交流(SICE)に参加。2010年にオランダ・ロッテルダムの王立ウィレム・デ・クーニングアカデミー ファインアート学科を首席で卒業。当時の主な作品は、IKEAに3日間住む「認識の創造」(パフォーマンス, 2008, オランダ)、ジョン・ケージ「4’33”」オマージュコンサートでスタッフに変装をし、観客に耳栓を配る「for John Cage」(パフォーマンス, 2010, ベルギー)など。2011年に日本で長男を出産、現在は3児の子育て中。2023年より奈良女子大学の山崎明子教授と出会い、ジェンダーやフェミニズムについて学ぶ。「よしおかさんち」という家族5人の表現ユニットで、「千のおうち」プロジェクトを進行中。