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磯貝依里
本を読むのが好き。
DRESSにてオムニバス短篇小説連載「やがて幻になるこの街で」(→)、
Horlogerieにて書評エッセイの連載 (→)、
ほかエッセイの執筆、文学トークイベントなど活動中。

  • 2021.02.01
    冬から春への永遠の時間
    《テーブルの上にあったものをすべて片付け、それぞれに水を一杯ずつ飲んだ後、わたしとオカノと吉崎君は、誰ともなしに立ち上がり、ささやかな卒論提出の打ち上げをお開きにした。もう一軒行く? ときくと、オカノは、昨日徹夜したので眠い、悪い、と言いながら学校の裏の自宅に帰っていったので、吉崎君とわたしも帰ることにした。平日の昼間の地下鉄は空いていて、二人で間を空けて座って広いシートを占領した。 はじめは、吉崎君は何も話さずにただそわそわしていたが、三駅ぶん南に下ると、なにか覚悟のようなものができたのか、何度か咳払いをしてわたしのしたかった話をはじめた。 ──津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』》  1月から3月にかけてのこの時期は、むかしから毎年記憶がうすい。 そもそも冬が大の苦手で精気が極端に減る。全身が冷えに沈んで血のめぐりが悪くなり、好きな読書や映画や音楽への興味も鈍くなり、動けなくなり、外出が減るからしぜんとふとんに包まって眠ってばかりになる。  くまやリスのようにふたたび生存に適した季節になるまでこんこんと眠っていられたらいいけれど、人間だからむずかしい。 冬といえば、人間は心臓がとまったら死ぬのだということを知ったのは小学二年生のちょうど今頃だった。校区の外れの小さな集合住宅に住んでいて、早朝の登校班待ち合わせで自転車置き場にたむろしていた時に上級生が突然「じつは人間は心臓がとまったら死ぬ」と教えてくれた。相当な衝撃だった。1月末の気温はそこに突っ立っている自分の心臓を今すぐに凍らせて止めてしまいそうだったから、上級生の言葉は余計に恐ろしかった。  そんな出来事もあってか、わたしにとって寒さのどん底であるこの季節は、ゆっくりと死に近づいていくようなスローモーションで目に映る。  思えば、この時期は毎年さまざまなかたちで停滞していた。 中学校ではそろそろ、卒業式の練習ばかりを馬鹿げてくりかえす宙ぶらりんの期間の足音がきこえてくる。 高校時代は、べつに目指してはいなかったがなんとなく推薦受験した大学の入学が決まった後、皆がセンター試験や一般入試に向けて追い込みをしているのを横目に、毎日早引けしてコタツでぼんやりとテレビの「ちちんぷいぷい」を観つづけていた。  大学時代はさらに曖昧な時期だったように思う。毎年この時期に何をしていたのかとくに記憶にない。後期の講義の終わりが中高よりも早く、1月末はその学年の最終試験がとっくに終わり、4月の始業までどの学生も、ゆうらり揺れる長い猶予期間があたえられるのだ。  大学ではもともと毎日喫煙所でとろけてばかりいてどの講義も出席率が悪かったから、寒さが極まってくるとさらに教室から足が遠のき、毎年単位修得にとても苦労した。四年生ではとうとう卒業認定単位が足りないと判明し、学内推薦で合格していた大学院進学の資格を失くして留年し四年生半までやった。 その年の冬は難波座裏で期間限定でバーの雇われ店長をやりつつ、ほかにも夜の仕事をいくつも掛け持ちして忙しかったはずなのだけれど、卒業が駄目になったのと金欠で自暴自棄になっていたせいか、その忙しさを全然憶えていない。 その後、ひとり夏の終わりの日に小さな教室で卒業証書をひっそりと受け取った。3月に執り行われた本来参加するはずだった卒業式には顔を出していない。けっきょく学部生生活の3分の2ほど不登校だった。その時のわたしは何もかもがだめで、同級生たちが一体どんな晴れすがたと笑顔で学科を旅立っていったのか、それすらも知ろうと思えなかった。  今はその頃のことがようやく微笑ましいと思える。  大学院を出たあとは三度転職して、辞めたのはどの仕事も1月末から2月末にかけてのこの時期だ。二度の無職期間は、いずれもこの凍える停滞の季節からはじまった。無職になったわたしは、高校受験を終えたかつての自分とまったく同じぼんやりした表情で毎日「ちちんぷいぷい」を観つづけて、畳にうっすら落ちてくる陽射しにちびちびと温もりながら、湯気立つホットミルクティーをやたら啜っていた。  記憶がうすいのは、冬の自分の身体がポンコツであるのに加えて、今の時期の過去のわたしが、何かへの所属意識や社会とのつながりが毎年異様にうすかったからなのかもしれない。  とはいえ、ぽっかり空いた大学生時代のこの時期の記憶にも、手繰り寄せてみれば思い出の感触は確かにある。 試験やレポート、卒制や卒論・修論が済んだこの時期は、学年の壁を超えて盛大な打ち上げ飲み会をするのが恒例だった。  講義には不登校だったくせに日頃から飲み会にはよく参加していた。ひとの少なくなった喫煙所でモニュメントに寝転びぷかぷかやっていると、やがて講義やゼミを終えた知り合いたちがポケットからタバコを抜きつつ近づいてきて「今夜、飲み会」と教えてくれる。週に三度四度と飲み会はあったけれど、すべてを終えた猶予期間の打ち上げ飲み会は皆どこか浮き足立っていた。  下戸なくせに負けず嫌いで、アルコール漬けになった先輩や後輩たちと朝まで文学や哲学や映画の話を闘わせたり、かと思えば、恋愛で惨敗した学生の涙なしでは聞けない話を笑い涙で吹き飛ばしたり、友人のとにかく爛れた性生活の話をありがたく拝聴したり、金が無さすぎて構内のよくわからん葉っぱを詰んでタバコ作ってみたからちょっと吸ってみてや、という馬鹿げて真剣な実験に飲みながら付き合ったり、撮った映画や書いた小説の話をしたり聴いたり、いつのまにかゼミの一員になっていたらしいヨソからの聴講生と昨日見た夢の話をしてみたり、そうこうしているうちに気づけばいつも夜が明けていて、じゃあ来年もガンバリましょー、と眠たい声で明るい空にふわふわ挨拶を交わし、潰れた先輩を抱えて帰宅する下宿組を店前で見送り、マフラーを巻きなおし、同じ方向の電車組と一緒に白い息を吐きながら駅に向かう。  打ち上げ飲み会のほかには、卒制や卒論・修論の提出後の夕方の光景が、大学生時代のこの時期の数少ない記憶としてある。 卒制や卒論・修論を無事に事務部へ提出した最終学年の知り合いたちは、皆目の下にこってりと濃いクマを浮かべて、けれど清々しい表情で「出したった、出したった」と喫煙所に集まってきた。 自分が三年生だった時は、普段飲み交わしている先輩たちがそんなふうに晴れ晴れとタバコを咥えながらこちらへやって来るのを灰皿のそばでひたすら待っていた。 底抜けの明るさと、未来への不安が同時に浮かんだ奇妙な表情。 今まで一緒にいたのに全然違うひとたちみたいだった。  四年間大量の本を読み大量の創作やレポートを書いてきて、ついに最後の文章を提出してしまった先輩たちのその表情を、わたしは今でも忘れない。  修士二年生で大学最後の論文を出した時のわたしもきっとあの先輩たちと同じ表情をしていた。 先輩たちの頃、いつも皆がもやいの場所のように集まっていたあの喫煙所は、わたしが最後の論文を提出したその時には時代の流れで廃止されて跡形も無くなってしまっていたけれど。 一緒に修士論文を提出した同級生の男の子ふたりと、その喫煙所があった場所でこっそり火を点けて、けけけ、と笑いながらタバコを突き合わせて、達成感と寂しさに満ちた一服をしたのを、いま書きながらふいに憶い出した。  令和2年度は感染拡大防止のために大学生はほとんど対面授業が行われなかったし飲み会もできなかった。 卒業した今でも大学生や院生と携わる機会が日々あるので、今年度の学生たちの様子がこの一年とても間近にあった。あまりにも変化の大きい一年で、しなやかに対応する学生もいれば、堪えきれずにこぼれ落ちてしまう学生もいた。 あの頃のわたしだったら一体どうなっていただろうか。と、つい考えてしまう。  生まれたタイミング。大学生になったタイミング。わたしが大学生だった頃は、ゆとりだの就職氷河期だの内定取り消しだのなんだので卒業後もずっと不幸世代のレッテルを貼られていて、それがとても不快だった。今の大学生たちがわたしの世代と同じように、外的要因のせいで卒業後もずっとずっと他人から不幸のレッテルを貼られたりしなければいいなと思う。  外の世界で何かが大きく変化していても、どんな光景になっていようとも、いくら他人から不幸のレッテルを貼られても、この冬から春にかけての永遠に停滞したような時間は、その時に大学生である彼らだけのものだ。  1月の初め、ゼミの後輩にあたる学生たちが無事に卒制や卒論を提出できたという報告をSNSに書いているのを見た。 後輩たちの清々しい声が文字となってスマホの画面で飛び跳ねる。そっと目を閉じると、かつて喫煙所だった学部棟の吹き抜けの広場に、卒制や卒論を提出し終えた後輩たちがゆるゆると集まってくる。  いや、もしかしたら後輩たちの世代ではあの場所は古臭く、もうあそこに集まったりはしないのかもしれない。彼らは彼らの過ごしてきた場所できっと、つぎの学年に上がるまでのあいだ、学部から大学院へと進学するまでのあいだ、卒業して大学の外へ出るまでのあいだ、あるいはつぎの場所が見つからないまま、冬から春にかけての、この手持ち無沙汰のような永遠の時間をたゆたう。  後輩の学生たちにおめでとう、ほんとうにお疲れさまでした。と、思いながら、今日もあまりにも寒い夜なのでわたしは仕事もメールの返信もなにもかも放り出し、友だちからもらった湯たんぽを足もとに置いてやわらかなふとんにもぐり込み、そっと目をつぶり眠る。 もうそろそろ寒くなくなってくれればいいのにと、毎日毎日ただそれだけを願っている。
  • 2020.12.17
    しなやかに粧い、装うこと
    《いつも音楽会と云えば着飾って行くのに、分けても今日は個人の邸宅に招待されて行くのであるから、精一杯めかしていたことは云うまでもないが、折柄の快晴の秋の日に、その三人が揃って自動車からこぼれ出て阪急のフォームを駆け上るところを、居合す人々は皆振り返って眼を欹てた。日曜の午後のことなので、神戸行の電車の中はガランとしていたが、姉妹の順に三人が並んで席に就いた時、雪子は自分の真向うに腰かけている中学生が、含羞みながら俯向いた途端に、見る見る顔を真つ赧にして燃えるように上気して行くのに心づいた。 ――谷崎潤一郎『細雪』》  鏡越しの顔はとうに見慣れた。はずであるのに、あいかわらず覗き込むにはそうとうな勇気が必要だ。  だから鏡と対峙する前にはいつだって一呼吸の準備がほしい。たとえば朝目が醒めた時は、ふとんを被ったまま手のひらで顔全体を覆ってみる。もう数え切れないほど毎日この顔に触れてきたわたしの手は、まるで目玉が付いているかのように明瞭に、その日のコンディションを寝ぼけた眼裏に映し出す。 手のひらにべったりと張り付くゆうべの保湿クリームのぬめり。少し指を動かしてみると、そのぬめりの下にピッコリとふくらんだニキビの萌芽。 眠る前にはなかったのに。と、憂鬱な気持ちで蔦が這うようになんとか起き上がり、意を決して鏡に向かえば、やっぱり赤く火照ったニキビ顔。  駅の姿見、ショーウインドウ、窓ガラスやドアの反射、街のいたるところにある鏡面状の物体がむかしはとてもこわかった。そこに浮かび上がる自分の顔と出逢うのが苦手でいつだって足早に通り過ぎていた。 小さい頃から絵を描くのが、とりわけ幼稚園時代から中学生にかけては女の子のイラストばかり描いていてどれだけ上達できるかということに執心していたから、絵が上手くなればなるほどいろんな絵を参考にすればするほど目が肥えて、そのぶんだけ自分の容姿に劣等感をおぼえるようになった。 強度近視でめがねが手放せないうえに、どれだけ太陽の方向を向いても光が入ってくれないぶ厚い一重まぶた。ひたいは広く、目立つ鷲鼻。口におさまりきらない大きな前歯。服は制服かUNIQLOのフリースとジーンズの選択肢しかなくて、身体の成長も遅かったから靴は一足を何年も履き続けていたしカップの付いた下着を買ってもらい身につけるようになったのは高校2年生だった。  ひとの目も自分の目もすべてがこわくて毎日ずっとうつむいて、本と絵にばかり傾倒していた。写真集や読んだ本の内容を参考にして、綺麗な服を着せて綺麗な色で瞳をふちどった女の子の絵を数え切れないほど描きつづけたくせに、そのペンを握っている自分自身があまりにも醜いがために、綺麗なものを身につける身分には一生なるべきではないとただひたすら思っていたのだった。  街に溶け込める程度の身だしなみに、とにかく「普通」の容姿に、誰の目にも留まらない普通のひとになりたかった。なのに、その程度に手を伸ばすのさえおこがましい気がして息苦しかった。  そんな強迫観念がやわらかくほどけてきたのは大学に入ってからだ。私服を余儀なくされたという事情もあるけれど、18歳の時に初めてピアスを開けたのがきっかけだった。 容姿に自信がなく凝った衣服と化粧に対して異様な恐れがあるくせに、本だの漫画だので育った頭でっかちな人間だったので、いきなり両の耳朶に一つずつと左の軟骨に一つ開けた。心斎橋の美容外科で施術してもらい、その後にさらに四つ増やした時は自分でニードルを使って開けた。 ささやかな施術だったけれど、その時、今までの弱くて醜い自分が武器を纏って少しだけ強くなった気がしたし、自分の中にけして裏切らない小さな小さな神様がうまれたみたいで、途端に心が満たされていったのをとてもよく憶えている。  神様はわたしの心のスイッチになって、耳にいくつかの穴が開いているというだたそれだけなのに、街で服屋に入ることも、そこで好きな服を選ぶことも、化粧品を吟味することも、そもそも自分にも好きな服や化粧品があるのだと認めることも少しずつこわくなくなっていった。  何年も何年もかけて、粧い装うことへの感性が自分の中で少しずつ変化していく。 最初のハードルはまず、長いあいだ自分自身で巻きつけていた固い鎖をほどくことだった。耳に神様がうまれてその鎖がほろほろと外れ、解き放たれたばかりのこわばっていた身体で一生懸命「綺麗」や「普通」を模索した。自分の足でいくつもの店をめぐり、さまざまな服やアクセサリーや化粧品を買い、美容院にこまめに通うようになり、それと並行して読む本や観る映画や、出逢うひとびとの幅が広がった。粧い装うことに対する恐怖心が減っていくと、新しいひとたちとの出逢いもどんどん嬉しくなるのがふしぎだ。  「綺麗」や「普通」を頑張って探しこわばっていた身体はしだいにやわらかくしなやかになり、すると「綺麗」や「普通」には、それこそ無限の幅があるのだと気がついた。  今から少し前、わたしが鎖に囚われていたあの頃はたぶん今とは違って、画一的な美の基準が強かったように思う。目鼻の形や髪型、唇や頰にのせる色、雑誌やテレビを観ていてもずらりと固定的だった。ひとりで歩きはじめたばかりの当時のわたしも御多分に漏れずその基準にばかりこだわっていたけれど、5年10年と時が経てば世界は変わり、それを受けて自分も変わる。 今ではさまざまな「綺麗」や「普通」がむかしよりもここにある。 あれだけ醜いと憎んでいたこの顔もユニークさやファニーさとして捉え、黄金比の美の基準値にむりやり近づけるのではなく、わたしの顔が向いているその方向へ、光を足して伸ばしていくことも大切にしてもいい。顔立ちよりも顔つきの美しさ。そんな軽やかな空気が漂う世界になりつつあるように思うのは、すべてのものごとの積み重ねなんだろうか。  細い目から滲み出る淡いオーラ。ぽってりした大きめの唇にリップをのせた時のおどろくような潤い。すっぴんの顔に寄るそのひとだけの形のしわ。内側から静かに火照っているようなそばかすの、その稀有な色。  媚びず、恐れず、囚われず、自分のなかでささやかに、自分のペースで自分を整えていくという愉しさ。 **  ここ数年は肌を育てるのが好きで、コスメはメイク用品よりもスキンケアのものを重点的に買うようになった。肌は育てれば育てるほどに応答してくれるから手入れの甲斐があって好きだと思う。植物を育てること、ガーデニングとよく似ていると思う。 朝、部屋の観葉植物をぼんやり眺めながら寝起きの顔に化粧水やクリームを塗り込んでいると、自分の頰の葉脈にも、瑞々しい冷たさが染み込んでいくような気持ちになる。  肌にこだわるようになってきたのと同時に、去年あたりから、耳に開けている軟骨のピアスを取って塞いでしまってもいいかと思うようになった。 30歳を超えた今、ボディピアスやタトゥーはかなり増えたけれど、やはり最初に耳に開けたこの軟骨二つがわたしの、粧い装うことへの最初のスイッチだという気持ちがあった。この二つの神様がいたから今の自分があった。洒落た街を歩く時にうまれてくる恐怖心を、この二つの神様がずっと守ってくれていた。 その恐怖心もだいぶ凪いで、もうこの神様たちに頼らなくてもいいかもしれないと思ったのだ。  それでもやっぱり日によっては、鏡を覗き込むのは未だにこわい。少し気を抜けば途端にかつての鎖だらけの自分に戻ってしまう。鏡越しの自分の頰にニキビを見つけたその瞬間、粧い装うことを恐れていた小中高生の頃の、羞恥心でいっぱいの自分が鏡のなかに映っている。新しいコスメブランドの店に入るその瞬間、足もとが頼りなくなり、脈が速くなる。そんな時、未だにいつのまにか、左耳の二つの軟骨に願掛けしている自分がいる。 だからこの神様にはもう少し、わたしの身体にいてもらうほうがいいのかもしれない。  このあいだの週末、ずっと気になっていたけれど畏れ多いからと一度も入れていなかったブランドでハイライトとチークのコスメを買った。練り粉タイプの水気たっぷりのハイライトで、ひとさし指で頬骨のあたりにそっとのせると、途端に顔が湯を浴びたてのように生き返った。高価だったけれど嬉しくてすぐに買って、帰宅するとテーブルに置いて大事に大事に眺めた。 むかしはこんなことできなかったな、時が経って、大人になってほんとうによかった、と思いつつ、これを塗って出かける翌週からの自分を、街のショーウインドウの反射に映り込むかつての小中高生の頃の自分がのっそりと見つめている光景が眼裏に浮かんだ。 あの頃の自分が今のわたしを見たらどう思うだろう。頰を赤らめて、羞ずかしがって、身分不相応なものをと感じながら、今のわたしを自分とは認識してはくれないだろうか。粧い、装うことを拒み、自分の容姿を憎んでばかりいたあの頃のわたしは。  でも、わたしはわたしのことが誰よりも大事だから、そしてそれを知れたのは何よりも、粧い装うことでだったから、もしもかつてのわたしの影が見えたならば、こんなふうに声をかけてあげたいと思う。  だいじょうぶ。「綺麗」も「普通」もあなたが好きなように選んでいいんだよ。だってあなたはこのあとに、自分自身で、小さな神様を手に入れるんだから、と。
  • 2020.11.09
    レンズにふくらむ今と過去
    《大阪でいちばん好きな建物は大丸心斎橋店だと思って、それから「どこで」と限定するのがおかしいと思い直して、とにかく好きな建物のところにいるのが楽しい気持ちで、比嘉くんが待っているはずの場所へ視線を移すと、比嘉くんがいた。 ――柴崎友香「ポラロイド」》  いつもふらふらしていた。平気でひとりでうろつけるようになったのは大学に入って半年ほどが経った頃だろうか。  兵庫県の南東に生まれ育ったわたしはあまり別の街へ遊びに出かけたりせず、高校時代までは阪急梅田駅が自分にとっての大阪で、阪急梅田の駅構内にある紀伊國屋書店の下に地下鉄が走っていることも知らなかったし、その地下鉄に乗ればその先に心斎橋や難波という大きな街があり、10分程度で到着することも知らなかった。 ミナミ。その街は本や映画のなかに時おり出てくる場所で、そこへ実際に自分が行けるとも、大学に上がるまではこれっぽちも思っていなかったのだ。  東大阪の大学に通っていたので鉄道三社の定期があり、七年間の大学生活のあいだにさまざまな大阪の街をいっぺんにおぼえた。難波や心斎橋のいわゆるミナミに足を踏み入れたのは、大学に入学し人生で初めて好きになった男の子がバンドマンで、放課後、その子にアメリカ村に連れて行かれたのがきっかけだった。よくある話。その後にミナミに居つくようになったのもよくある話で、好きな男の子のバンドと友だちのバンドが共同ライブを開催するというのでアメリカ村のFANJ twiceに観に行き、その打ち上げで訪れた三角公園近くのバーに気に入られて常連となり店員となり、やがてバンドのライブだけでなくクラブ遊びもおぼえ、そこで遊んだあとに三日間朝昼夜とちがうバイトで働き続け、大学で授業を受けたり日向でぼんやりタバコを吸ったり、それからまたミナミに戻ってバーのソファで仮眠してまた働いて、また遊んで、といった馬鹿げて愛おしい生活をくりかえしていたらいつのまにか自分の居場所のひとつになった。  最初に好きになった男の子にはぜんぜん別れる気配のない彼女がいつづけて結局実らず、気づけばほかの男のひとと恋愛関係になっていたり、思い返せば返すほど、ほんとうによくある話。  ややこしい恋愛だの男女関係だのを三つも四つも抱えていた。友だちの意味の複雑さも知った。これまたほんとうによくある話なのだけれど、20歳自前後の自分にとってはすべてが新しい、すべてが美しい、すべてが辛く苦しい、何よりも大切な自分だけの物語だった。  だから、ガラケーや登場したての初期iPhoneで、大阪の街で過ごす日々にまつわるあらゆる写真を撮り、ブログをつけていた。  リアルの友人知人には教えていない投壜通信のようにささやかな写真ブログはわたしの生活の一部で、そして街を透かし見るためのレンズでもあった。リンクや検索を手繰ってなぜだかそこへたどり着いたわたしの写真ブログの読者たちは、わたしの小説によく似た、けれど似ているからこそけして小説ではない生活やそこに登場する大阪の街を、いったいどんな気持ちで日々見てくれていたのだろう。10年近く言葉を投壜していたブログサービスはいずれも閉鎖され、広がっていた海はもうどこにもない。  それでも記憶は消えたりしない。干上がって消えてしまった海に漂っていた若いわたしの日々の言葉たちは、写真たちは、乾いた砂の上の貝殻や海藻みたいにたぶん今もこの街のいたるところにこびりついて光っている。  イヤホンを耳にねじこみ音楽アプリを起動して地下鉄御堂筋線に乗り、海底のような黒い車窓をぼんやり眺めながらキタからミナミへ向かい、心斎橋駅に到着する。さまざまな方向へひとびとが渦巻くホームの喧騒を抜け、エレベーターをいくつも上がり街へ出る。大丸心斎橋側もOPA側も、どの出口から出ても一歩踏み出した瞬間、さまざまな店の香ばしい匂いが広い道にそれぞれ浸み出してきては交わっていて、いつだってそれを胸いっぱいに感じる。 ふと気配を感じて振り向くと青空に葉むらを透かすイチョウ並木。 その下に、10年近く前のわたしがいる。当時好きだったひとと落ち合うその時間まで、ひとりふらふらと時間を潰し、視界に流れ込んでくる風景にガラケーを向け写真を撮ってはメール画面をひらきプチプチ、プチプチとその時の想いを日記として綴り、自分のブログに送信しているすがたが見える。その時に書いた言葉も、イチョウの木の根もとに刻みつけられたまぼろしのようにはっきりとそこに見える。蘇ってくる。 この街の角を曲がる度、好きな場所に足を向ける度、いつかの遠い日々に何度も何度も身を寄せた場所の前を通る度、過去のわたしの言葉や粒子の荒い写真が見える。  わたしが過去だと思っているわたしは今もこの街で確かに生きている。 わたしが過去だと思っているその世界で、消えたわたしは今もまだ同じ時間を生きていて、初めてアメリカ村に来た日のわたしが、好きなひとにひどい目に合わされて泣くこともできずに商店街の路地のジャンカラで男友だちと朝まで歌っていた日のわたしが、「一枚のアルバムでもみんなで楽しく踊れんねんで」と笑うDJの流す音にいつまでも揺れていたかった日のわたしが、明け方に添い寝友だちの家に上り込む日のわたしが、そこで寝起きに折り紙を折った日のわたしが、今のわたしが、それぞれの世界の岸辺に裸足で立って生きている。 今この瞬間、互いを憶い出しあって、見つめ合う。  今はもう消えてしまった、10年近いあいだ書き続けた写真ブログは、全部ではないけれどスクリーンショットに残している。 止まった水面。 7年前に心斎橋にいたある日のわたしはこう書いていた。大学入学以来誰の一番にもなれない恋ばかりを繰り返し、心身をぼろぼろにして男のひとを支えていた似た者同士の親友とわたしが、ようやくその自己犠牲から卒業できた頃のこと。心斎橋から家まで真夜中にドライブをしたその晩の日記だ。 〈わたし達はいま、他人の舞台で生きてる。すべてが疑似体験だというのに、あまりにそれが楽しいから、他人の活躍のための小道具を出してあげたり引いてあげたり、緞帳を上げ下ろししてあげることだけで満足してしまっている。それではいけない。わたし達もそれぞれ、自分の舞台でもがかなきゃいけない。「若者」としての時間はもうほとんど残っていない。 わたしはこれからどう生きてゆくのだろう。光り輝く世界がレンズに注ぎ込まれ、ふくらむ今がある。レンズの内側からレンズの外側へ。  そうしてまたそのはざまで水になる。〉
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